3.大阪市鶴見区中茶屋1の道標(河内国内)

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大阪市鶴見区中茶屋1−16−2 府道15号(八尾茨木線、枝切街道)中茶屋1丁目の三ツ辻東部に西を正面に建つ
蒲鉾型角柱 133x36x30p(頂高8p)(基部16p高さに含む)
N34.701596 E135.584828


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写真himg6149

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西面
┌─――――――――――――┐
│右 ならミち       │
│左 京みち        │
└―――――――――――――┘

南面
┌─――――――――――――┐
│宝暦十一辛巳年      │
└―――――――――――――┘

東面
┌─――――――――――――┐
│(なし)         │
└―――――――――――――┘

北面
┌─――――――――――――┐
│…もろくち村中ノ茶や   │
└―――――――――――――┘


(宝暦十一(辛巳)年1月1日とすると、西暦1761年2月5日日曜日となる。)
(『大阪の街道と道標』武藤善一郎、平成11年発行では、375
 『大阪市立博物館研究紀要第三冊』1971(昭和46)年発行には、未記載。)
(鶴見区鶴見が摂津の国で、東の鶴見区横堤が河内国となる様で、河内の道標となり対象外であるが、調べてみたの
 で載せておく。)
(鶴見区の資料等には「古堤街道と枝切街道(小坂街道)の分岐点」とあるが、明治44年の地図で見ると古堤街道
 は寝屋川の北岸(右岸)を東西に通る道を示している。そうなれば、此処は分岐点ではなくなるが、明治17年頃
 の地図では、当地点を「三島新田」とし東の諸福へ繋がる太い道として描かれていおり、これなら分岐点としても
 良さそうである。この道標はもう少し古い時代でもあり、当時は「古堤街道」なる呼び名も無かったと思うので、
 京と奈良への分岐辻であった。道標を説明するときの道の表現を明治期に命名された旧街道名で示す難しさを実感
 させる良い例と思い述べてみた。近世の道標が行先の地名しか書かない方法を採る所以であろう。)
(北面の「…もろくち村中ノ茶や」について、「…」部分に文字が有るか無いか、又有るとするなら何と書かれてい
 るのか大いに気になる。字が有るとした場合は、方向か、「願主、施主」等と考えられが、空間的に二字は難しそ
 うだが碑面目いっぱいに使えば入らなくもない。方向とするならば「もろくち」のすぐ上に「い」の様に見えるも
 のがあり、この場合「右」のくずし字が思いつくが、「中ノ茶屋」が右方向は許せても、「もろくち」(諸口)は
 「左」西方向となり不可である。結果、何も書かれていないとすべきか。)
(京方面(枝切街道を北)に進めば、「鶴見区浜4の道標」に続く。)

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【1.道標を東に望む 【2.道標を北に望む 【3.道標を南東に望む
 右(東)諸福、奈良へ  奥(北)京へ  中央電柱右に当道標
 左、古川を渡り浜へ】  左道なり南の徳庵へ】  自転車方向が府道15号】

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【4.道標北面上部 【5.道標西面拡大 【6.道標南面拡大
 「…もろくち村」  「右 ならミち」  「宝暦十一辛巳年」
 と読める】  「左 京みち」とある】  と読める】

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【7.道標北面拡大1 【8.道標北面拡大2 【9.道標北面拡大3
 下の「い」に頼って  「もろく」  「くち村」」
 「右」としたいが】  と読める】  と読める】

写真himg6170 写真himg6171 写真himg6173
【10.道標北面拡大4 【11.道標北面拡大5 【12.道標北面拡大6
 「村中」  「中ノ茶」  「茶や」
 と読める】  と読める】  と読める】

写真himg2314
【13.大阪市鶴見区の道標】
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