11.大阪市平野区中野2の里程標(道標では無い)

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大阪市平野区中野2−7−16 平野区画整理記念会館の玄関南部の植込み中に北を正面に建つ。
尖頭型角柱 123x22x22p(頂高4p)
N34.622387 E135.540381


写真himg7224

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北面
┌─――――――――――――――――┐
│八尾街道 距阪奈街道分岐     │
└―――――――――――――――――┘

西面
┌─――――――――――――――――┐
│ 距平野郷町元標十四丁五十六間  │
└―――――――――――――――――┘

南面
┌─――――――――――――――――┐
│ 明治三十六年十二月建設大阪府  │
└―――――――――――――――――┘

東面
┌─――――――――――――――――┐
│ 距堺市元標二里五丁三十(九間) │
└―――――――――――――――――┘
(( )部は『大阪の街道と道標』より)


(明治三十六年は、西暦1903年である。)
(『大阪の街道と道標』武藤善一郎、平成11年発行では、353A
 『大阪市立博物館研究紀要第三冊』1971(昭和46)年発行には、未記載。)
(「八尾街道、距阪奈街道分岐」を道案内と捉えるか微妙であるが、「里程標」とした。上書に倣い載せる。)
(西横の解説板に載る元位置は「現東住吉税務署より東へ90m(平野区平野西1丁目11番地先)の処、平野から
 南下してきた八尾街道が西に方向を変える場所に建っていました」と成っており500m南東からの移設となる。
  何故このような場所にと考えた時、明治の地図で見ると上記地点は平野郷町と南東の喜連村、南西の南百済村と
 の境界点と思われ、役所的には意味のある場所なのかもしれない。)
(上記を元位置とすると、北面の「距阪奈街道分岐」の下には距離が来そうに思うが書かれていないとすれば解釈と
 して「八尾街道は阪奈街道の分岐点から「はじまって」いる。或は「別れている。」とすべきか。)
(西面の「十四丁五十六間(1.63km)」を「平野本町4の道標」を通り、宮前交差点の南西60mの旧道三ツ辻辺り
 で1.6kmとなるが、元標は見当たらない。)

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【1.里程標を南西に望む 【2.里程標を北西に望む 【3.里程標を南東に望む
 右、記念会館玄関  左奥(西)突当り  角柱が当里程標
 中央が当里程標】  右、杭全方面へ】  右(南)阪高松原線】

写真himg7247 写真himg7234 写真himg7238
【4.里程標東面上部 【5.里程標北面上部 【6.里程標西面上部
 「距堺市…」  「八尾街道」  「距平野郷町元標」
 と読める】  と読める】  と読める】

写真himg7249 写真himg7235 写真himg7239
【7.里程標東面中部 【8.里程標北面下部 【9.里程標西面下部
 「市元標二里」  「距阪奈街道分…」  「標十四丁五十六間」
 と読める】  どう読むのか】  と読める】

写真himg7252 写真himg7233 写真himg7253
【10.里程標東面下部 【11.里程標を北西に望む 【12.里程標南面下部
 「二里五丁三十」  南面「明治三十六…」  「…二月建設大…」
 までは読めた】  東面「距堺市…」】  と読める】

写真himg7237
【13.解説板を南に望む
 元位置の説明と
 八尾街道に七基残ると】

写真himg2320
【14.大阪市平野区北部の道標】
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