堺市堺区榎元町4−5 西高野街道と竹内街道分岐の三ツ辻南部に北西を正面に建つ。
(三ツ辻西部には「堺市堺区榎元町4の道標」がある。)
角柱 122x25x25p
N34.569927 E135.487645




北西面
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│ 福田 長野 │
│右 西高野街道 │
│ 三日市 高野 │
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南西面
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│平成二十九年三月 再建 堺市 │
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南東面
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│明治三十八年四月建設 大阪府 │
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北東面
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│ 富田林 千早 │
│左 竹之内街道 │
│ 古市 山田 │
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(明治三十八年は西暦1905年である。平成二十九年は西暦2017年である。)
(『大阪の街道と道標』武藤善一郎、平成11年発行では、1。)
(旧道標は「堺市埋蔵文化センター(南区稲場1-3142)に移転」とするweb資料が有るが未確認である。
上書では「折損し現地にはなく新しい標石が立つ」としており、現在(2021)西に建つモニュメントを「標石」
と表現し、明治三十八年のものと思われる読み下しが書かれるが、現在のものとは一部異なっている。)
(現在(2021)の阪神高速堺線が通る道より東は、和泉国内となり対象外であるが、調べたので載せておく。)
(当地は南東に向かう「西高野街道」と東に向かう「竹内街道」の分岐点であり、道標を設置して当たり前の場所で
あり、再建前の紀年が「明治」である事は、更にそれ以前の道標を建て直したものと想像する。)
(西横に有るモニュメント(記念碑)も載せておく。)
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【1.女人堂の道標越しに |
【2.道標を南に望む |
【3.道標を北西に望む |
道標を南東に望む |
右奥、西高野街道へ |
右端が当道標 |
左(東)竹内街道へ】 |
左道標、右記念碑】 |
奥(北西)堺市役所へ】 |
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【4.道標北東面拡大 |
【5.道標北西面拡大 |
【6.道標南面拡大 |
「左、竹之内街道…」 |
「右、西高野街道…」 |
「平成二十九年…」 |
と地名が書かれる】 |
と地名が書かれる】 |
堺市の建立になる】 |
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【7.道標南東面拡大 |
「明治三十八年…」は |
元の道標の紀年か】 |
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【8.堺市の道標】 |
【西横記念碑】

下部北面
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│ 右 西高野街道 │
│歴史の街道 │
│ 左 竹内街道 │
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下部西面 |
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│街角の再発見 │ |
│ 昭和62年12月 │ |
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下部南面 |
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│(なし) │ |
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下部東面 |
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│ 竹内 西高野街道の分岐点 │ |
│ │ |
│ENOKIMOTOMACHI │ |
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(中部北西面)

西高野街道は堺から紀州の霊
場・高野山に向かう信仰の道で
す。高野詣でが盛んだった平安
末期から鎌倉初期にかけては船
で堺に上陸した西国の人たちで
賑わい・物資輸送にも盛んに利
用されました。起点は堺の大小
路で、河内長野で中、東の両高
野街道と合流します。
(中部北東面)

竹内街道は竹内峠越えで堺と
大和を結ぶ要路でした。古代は
丹比(たじひ)道と呼ばれ沿道
には渡来人ゆかりの地も多く大
陸から仏教文化が伝えられたの
もこのルートです。飛鳥時代、
遣隋使もここを通り住江津から
船出しました。ここは西高野街
道との分岐点で、近くに奈良時
代創建の向泉寺跡もあります。
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【9.記念碑北面拡大 |
円柱、三角柱、円柱、角柱 |
を組み合わせた凝った作り】 |
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