13.堺市北区黒土町3の道標1(河内国内)

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堺市北区黒土町2360−6 竹内街道の黒土西地蔵尊の西前に南を正面に建つ。
(3m北の祠内には「黒土町3の道標2」がある。)
尖頭型角柱 148x24.5x25p(頂高7p)、台石8x61x57p
N34.565024 E135.50015


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南面
┌─――――――――――――――――┐
│本尊阿彌陀如来          │
└―――――――――――――――――┘

東面
┌─――――――――――――――――┐
│   万代八幡 十二町      │
│従是               │
│   家原文殊 三十七町     │
└―――――――――――――――――┘

北面
┌─――――――――――――――――┐
│  施主 堺講中         │
└―――――――――――――――――┘

西面
┌─――――――――――――――――┐
│弘化二年乙巳九月         │
└―――――――――――――――――┘
(「巳」は「己」と刻す)


(弘化二年(乙巳)九月1日とすると、西暦1945年10月1日水曜日となる。)、
(『大阪の街道と道標』武藤善一郎、平成11年発行では、1C)
(現在(2021)の阪神高速堺線が通る道より東は和泉国となり、向陵町を越えると河内国内となり、対象外であるが、
 調べたので載せておく。)
(東面の「万代八幡」を堺市北区百舌鳥赤畑町5−705の「万代寺」と南の「百舌鳥八幡」を示すとして、現地の
 南東の辻から南へ十二丁(1.4km)として問題なく、「家原文殊」を堺市西区家原寺町1−8−20の「家原寺」
 として、現在の道では経路が解り難いが三十七町(4km)も納得の距離であろう。よって現在地は辻では無いので
 南東70mの辻に立っていたと想定できる。当然進むべき方向から見て、現南面が北面していたと思われ、辻南東部
 に置かれていたと考えられる。但しこの辻は明治の地図では確認できず、小径ではあるが北西10m辺りで南に分岐
 する三ツ辻(現袋小路)が読み取れるので此処であったかも知れない。更に北西120mにはなるがこの四辻が一番
 道標を必要とする辻となり、堺市立図書館の「地域資料デジタルアーカイブ百舌鳥古市古墳群特集」の年代不明で
 はあるが、「三帝陵東原天王社向井村絵図」の、東端の黒土村中に描かれている地点と思われる。
  しかし結論は出さないでおきます。)
(施主が「堺講中」となっており、石の大きさからみて裕福であったと想像でき、構成員も多いはずで達筆の人が書
 くと思うのだが、なかなか癖のある字である意味現代的である。何か意図するものが有ったのであろうか。)

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【1.道標を東に望む 【2.道標を北に望む 【3.道標を北西に望む
 奥(東)竹内街道  左端、当道標  奥(西)竹内街道
 奈良方面へ】  後は黒土地蔵尊】  中環向陵中町交差点へ】

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【4.道標西面拡大 【5.道標南面拡大 【6.道標東面拡大
 「弘化二年乙巳九月」  「本尊阿彌陀如来」  「万代八幡十二町」
 と読める】  万代寺の本尊か】  は南東70m辻を南へ】

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【7.道標北面拡大 【8.道標を北西に望む 【9.道標を南西に望む
 「堺講中」は  右の祠は黒土地蔵尊  道標後ろも元位置候補
 万代寺の講か】  左端の地蔵も道標】  現在は袋小路であるが】

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【10.堺市の道標】
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