12.大阪市東淀川区下新庄4の道標

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大阪市東淀川区下新庄4−1−17 阪急下新庄駅西口の北60mの下新庄踏切から南西240m、
下新庄北公園南の五つ辻南部に北東を正面に建つ
山型角柱 76x21x15p(頂高4p)(基部8p含む)
N34.745888 E135.517694


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北東面
┌─――――――――――――――――――┐
│右 あまがさき            │
│        道          │
│左 そうぜんじばし          │
└―――――――――――――――――――┘
(「ば」は変体仮名「者」に濁点)

北西面
┌─――――――――――――――――――┐
│(なし)               │
└―――――――――――――――――――┘

南西面
┌─――――――――――――――――――┐
│(なし)               │
└―――――――――――――――――――┘

南東面
┌─――――――――――――――――――┐
│ 施主 井上藤右衛門         │
└―――――――――――――――――――┘


(『大阪の街道と道標』武藤善一郎、平成11年発行には、未記載
 『大阪市立博物館研究紀要第三冊』1971(昭和46)年発行にも、未記載)
(案内は「右 尼崎」、「左 崇禅寺橋」とした。)
(当地を明治の地図で見ると、北東から南西の淡路に繋がる聯路(明治期の中島街道か、現新幹線下)から西に小径が
 分岐する三ツ辻に見える。この南西への道は道標から600m先に「中島大水道記念碑」があることでも分かるように、
 排水路の左岸を通過している。南西1.4qに至ると崇禅寺の北に出て、現柴島から東三国に繋がる府道134号線と交
 わり今は複雑な交差点を形作る。この府道の北すぐに中島大水道を渡る橋があり、これが「そうぜんじばし」と勝手
 に想像した。(明治17年頃の地図には西への小径は書かれていない。)
  そうすると、「右あまがさき」が西への小径を指す事になり、これを辿ると神崎川の左岸に出た後、十八條、三国、
 加嶋、神崎の渡しで川を越え、中国街道と書かれた道を長州から尼崎となりそうです。
 但し、西への小径は現在では跡形も無く消えてしまい、現状では道標に正対し右側なら、やや太い道を指してしまい
 140m先でガードをくぐる道になってしまうが、当時は無かった道でありこれが尼崎への道では無い。道標の「左」
 を指す道が、現在は路地のようでも蛇行しながら新幹線の北側までは残っており、当時の聯路を追跡できる。
  尼崎への道の一部は大吹橋南詰辺りに残ると思います。)
(明治の地図は「今昔マップon the web」で参照可)
(南西に「崇禅寺墓地内の道標」がある。)


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【1.道標を南西に望む 【2.道標を北に望む 【3.道標を北東に望む
 正面奥へは当時道無  正面、下新庄北公園  奥、阪急下新庄踏切へ
 左奥、旧道崇禅寺橋へ】  左と奥の道は当時無】  右手前(南)旧道へ】

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【4.道標を西に望む 【5.道標北東面拡大 【6.道標南東面施主の下
 右側北東面に案内  「右、あまがさき」  剥離があるが
 左南東面に施主】  「左、そうぜんじばし」】  「井上藤」とした】

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【7.道標上部を見下す 【8.道標北東面下部 【9.道標南東面下部
 下が北東面  中央下部「道」  「藤右衛門」
 剥離の心配大】  左「…じ者゛し」】  は間違いないか】

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【10.大阪市東淀川区の道標】
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