13.大阪市東淀川区崇禅寺墓地内の道標

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大阪市東淀川区東中島5−27−44 崇禅寺本堂北西墓地内、遠城兄弟墓石の南25mの水場南に南東を正面に建つ
蒲鉾型角柱 119x21x14.5p(頂高4p)
N34.734040 E135.508339


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南東面
┌─――――――――――――――――――┐
│  兄 遠城治左衛門         │
│左         墓所道      │
│  弟 安藤喜八郎          │
└―――――――――――――――――――┘

北東面
┌─――――――――――――――――――┐
│           二十世     │
│天保十四癸年卯初冬吉日   俊英代  │
└―――――――――――――――――――┘

北西面
┌─――――――――――――――――――┐
│(なし)               │
└―――――――――――――――――――┘

南西面
┌─――――――――――――――――――┐
│ 施主 山ノ丁            │
│       若中          │
└―――――――――――――――――――┘


(天保十四(癸卯)年初冬を10月1日とすると、1843年11月22日水曜日となる。この年閏9月あり。)
(『大阪の街道と道標』武藤善一郎、平成11年発行には、未記載
 『大阪市立博物館研究紀要第三冊』1971(昭和46)年発行にも、未記載)
(進むべき方向と目的地が書かれており、道標の要件は満たしている。但し、目的地までが25m程と余りにも近い為
 道標とすべきか悩むところであるが、遠近にこだわる必要はないとして道標として掲載します。
 現状では此の前からは、樹木が邪魔をして、墓石を覆う祠が見えないので此処に有って不思議はないが、境内にあっ
 て必要とされる位置は、西門から入って正面客殿の前辺りが良いのではないかと思う。
  又、現状では全体が綺麗に見えているが、下部50pほどを見ると石の風化が上部に比べ明らかに進んでおらず、
 ある時期埋っていたいた事がわかります。現位置で堀り上られたとするよりは、移設が有ったと考えたい。
  尚、寺域の外に置かれていたならば、文句なしの道標になり、落語『祟禅寺馬場』よろしく「松屋町を北へ北へ、
 天神橋を渡り、長柄の堤にかかりますと…」とある様に、大坂市街から長柄を渡って来た人を案内する為には崇禅寺
 南東角で西折れを指示するか、北東角で同じく左折を案内した等が考えられる。
 しかし、この案内では元位置を同定する事は難しいでしょう。
  上記の寺南東角には「東中島5の道標」が建っています。)
(施主にある「山ノ丁」は明治の地図で崇禅寺と現府道134号との間に書かれており、地元の人の建てたものと分る。
 昭和53年地図までは「山口町」の名が見えますが、同じかどうかは不明。
 明治の地図は「今昔マップon the web」で参照可)
(北東方向には「下新庄4の道標」があるがそれにある「崇禅寺橋」との関係は不明。)

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【1.道標を北に望む 【2.道標を南東に望む 【3.道標を南西に望む
 左奥へ20mに墓所  奥、東淀川区戦没者の碑  奥、西門方向へ出て
 三ツ辻の北東部にはなる】  背面に墓所がある】  左折し本堂西側へ】

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【4.道標を北に望む 【5.道標南東面上部 【6.道標北東面上部
 手前左に墓所へ  「左」は進むべき方向  「天保十四癸年卯」
 奥左、細川ガラシャ墓へ】  「兄、遠城/弟安藤」】  天保14年のこと】

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【7.道標南西面上部 【8.道標南東面中部 【9.道標北東面中部
 「施主」  「遠城治左衛門」  「年卯初冬吉日」
 と読める】  「安藤喜八郎」】  初冬は十月から】

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【10.道標南西面下部 【11.道標南東面下部 【12.道標北東面下部
 「山ノ上」は村名か  名前の下部に  「二十世」
 「若中」】  「墓所道」とある】  「俊英代」とある】

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【13.大阪市東淀川区の道標】

(当道標の背景を少し述べておきます。
 「敵討崇禅寺馬場(遠城兄弟の敵討)」とは大阪市立図書館のWebから「正徳5年11月4日(1715年11月29日金曜日)に、
 崇禅寺馬場(現東淀川区東中島5-27-44)で、敵討ちをしようとした遠城兄弟が、仇の生田傳八郎一派に返り討ちにあっ
 た事件。」と説明され、現地の説明板では「赤穂浪士討入の13年後でもあり、浄瑠璃(宝暦8(1758)年頃)に仕立て上
 げられて人気を博した」ようです。浄瑠璃からは80年以上も後の建立となりそうですが、それだけ一般に広まってい
 たと考えると、参詣の人も多かったと思われる。)

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【14.遠城兄弟の墓の説明板 【15.遠城兄弟の墓を北に望む 【16.細川ガラシャの墓
 道標は事件の128年後  左提灯下に説明板  遠城兄弟墓の東側に有る
 浄瑠璃化から85年後】  墓石には二人の戒名】  此方への案内碑は無いのか】

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【17.崇禅寺境内図】
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