15.大阪市東淀川区瑞光町2の道標

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大阪市東淀川区瑞光町2−2−2 内環状線大隅1交差点北側、瑞光寺参道渡香橋の北西部に東を正面に建つ。
角柱 89x17x12.5p(上部折損、右側高85p、上部奥行10p)
N34.749054 E135.538001


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東面
┌─――――――――――――――――――┐
│  厄(除)             │
│左    観世音 瑞光寺道      │
│  安産               │
└―――――――――――――――――――┘

北面
┌─――――――――――――――――――┐
│(なし)               │
└―――――――――――――――――――┘

西面
┌─――――――――――――――――――┐
│    大坂南久寶寺町住       │
│  建之   大和屋佐兵衛      │
└―――――――――――――――――――┘

南面
┌─――――――――――――――――――┐
│(なし)               │
└―――――――――――――――――――┘


(『大阪の街道と道標』武藤善一郎、平成11年発行には、未記載
 『大阪市立博物館研究紀要第三冊』1971(昭和46)年発行には、未記載。)
(現在地は寺の境内でもあり、現地では「右」がすぐに寺であること、も考えると移設は間違いないであろう。
 明治の地図(今昔マップon the web)で候補地を探すと、
N34.746074 E135.537303
 今の住所では東淀川区豊新5−9−7となる三ツ辻が見える。
 この北東部に、現東面を南西に向け置かれていたと考えれば「左、瑞光寺道」は北に進み、現大隅1交差点に260m
 で出て瑞光寺の門前となり、相応しいであろう。
  尚、この辻の南西の道を、道なりに進めば「東淀川区菅原1の道標」に繋がり、その道標にある「右、瑞光寺」と
 矛盾なく繋がる。
  因みに、この三ツ辻を「右」に進むと、大桐から江口の渡しに繋がる主要道となり、寺参詣用にはここで北に折れる
 案内が是非とも必要であったとしたい。)
(上部の欠損は致し方ないとしても、現西面上部が削り取られているように見える。欠損部分が碑面の半分に及び、割に
 平らである事から故意に削った可能性がある。文面からすると建設した年月日が考えられるが、その理由が思い当たら
 ない。多分施主の名前からすると、近世(明治以前)のものと出来そうである。
 ただ、「建」の字の一部も欠けており、故意に削除したものでなく、上部が折れた時この面もつられて剥離したとすれ
 ば、難しく考える必要はなくなる。石質は知らないが時々見かける緑色系の軟らかそうな石ですが、大谷石程では無さ
 そうです。欠損部分の厚みが2.5pに及ぶことも剥離説に有利であるが、他の目的に転用されていた為削られたと解釈
 することも出来る。
  「鯨橋」は国会図書館デジタルコレクション『摂津名所図会』[3]のコマ71(寛政8-10(1796-1798)年出版)に
 載り、「小松村瑞光寺堂前にあり、宝暦年中熊野…」とある事からこの頃迄遡ってもおかしくは無いが、前述の道標の
 紀年の天保七(1836)年程度が限度ではなかろうか。石の種類と摩耗度合いからの感じだけであるが。)

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【1.瑞光寺を北に望む 【2.道標を北西に望む 【3.道標を南に望む
 橋を渡ってすぐ左に  左(南)側に立つのが  高架は新幹線
 道標が建つ】  当道標、奥寺へ】  その後ろ大隅1交差点】

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【4.道標を北西に望む 【5.道標東面上部 【6.道標西面拡大
 中央が当道標  「厄除/安産」」  「…建之」
 移設に違いない】  「左 観世音」とした】  「大坂南久寶寺町住…」】

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【7.道標西面を見下す 【8.道標東面下部 【9.道標西面下部拡大
 左面上部が削り落と  「瑞光寺道」  「…久寶寺町住」
 された様に見える】  とした】  「大和屋佐兵衛」】

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【10.瑞光寺を北に望む
 手前が「鯨橋」であろう。
 欄干に「弘済池」とある】

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【11.大阪市東淀川区の道標】
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