37.高槻市萩谷山中地蔵道標

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高槻市萩谷 萩谷長賢寺道標下から沢右岸を下り100m、渡渉後沢を離れ東に270m、尾根三ツ辻東部に北西を正面に建つ
地蔵型道標 55x31x20p(台石11x37x25p)(基壇45x110x106p)(像35x14x4p)
N34.888320 E135.580056


写真jimg2552
北西面(地蔵光背部)
┌―――――――――――――――――――┐
│ 右 やなぎ谷道           │
│(地蔵立像)             │
│                   │
└―――――――――――――――――――┘
(「ぎ」は変体仮名「起」に濁点、「柳谷」)

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南西面
┌―――――――――――――――――――┐
│(なし)               │
└―――――――――――――――――――┘

写真jimg2561
南東面
┌―――――――――――――――――――┐
│(なし)               │
└―――――――――――――――――――┘

写真jimg2562
北東面
┌―――――――――――――――――――┐
│(なし)               │
└―――――――――――――――――――┘


(『高槻の道しるべ』高槻市教育委員会発行、昭和58年刊では、82)
(同書には、ここから先廃道、原への道であろう。とあり、明治の地図には小径として載る。)
(尚、この道標の西に有ったと思われるのが「萩谷長賢寺道標」であろう。)

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【1.道標に続くと思われる道が切れ
 地図では対岸へ渡れる様であるが
 対岸の道も見えず、水量もあり
 渡渉しなかった】

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【2.高槻中部の道標】
写真eimg6742
【3.高槻南部の道標】

 2023/5/22再度調査、追記
  今回は明治の地図を良く検討し長賢寺の道標から出発し、左岸に渡る橋があると想定しそこを渡るべく探すところ
 から始めました。訪問する方のために道筋を書いて置きますが増水時は注意下さい。
  最初に府道115号(西五百住線)から「萩谷長賢寺道標」へのアプローチですが、距離が近いのはバス停「下萩谷」
 の北から東へ一気に下りX字辻で折返し10mの道ですが、訪問時には工事中で通行止めになっていました。そこで、
 「中萩谷」バス停から南へ折り返す様に集落内へ下り人しか通れない道を直進すると、前述のX字辻に出ます。四辻
 としないのは行ってみれば分ると思いますが直交していない為です。この辻を10m南東に下ると左手(東)の民家の
 門の手前に「萩谷長賢寺道標」が建ちます。
  こ道標の「すぐ柳谷道」に従って、舗装のある道を進むと間違いです。舗装路の左脇に萩谷川の沢へと下る道?に
 入るのが正解です。ここを進入口とします。
  明治の地図を見て、右岸から左岸への橋が架かっていたであろうと想像し探すが、それらしい場所は見つかったも
 のの、竹藪(前述民家の門の下)に妨げられ行けず、右岸下方から見ると橋は無く沢を渡ることは不可能に見えます。
 仕方なく前回諦めた右岸道が切れる所まで下りつつ渡渉地点を探すが有りません。前に諦めた地点で道が途切れます
 が今日は水が少なく飛び石伝いに渡ることが出来ました。沢の少し上に踏み跡があり10m程進むと赤いテープが有り
 これを目安に進みました。と言うより、他には進めそうにも有りません。ほとんど水平に山の襞を進み谷が開けた所
 で後ろを振り返ると送電塔が見えた。沢から離れるにつれ、道らしくなり、水平にさえ進めば問題はないでしょう。
  進入口から100mで渡渉地点、渡渉後約270mで当地蔵道標となります。

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【4.長賢寺道標を 【5.進入口を南に見る 【6.右岸道が途切れる
 南に見る  右舗装路でなく  地点を南に見る
 背後にX字辻】  左ストック方向へ】  3m程の沢を左岸に渡る】

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【7.渡渉後進む先を南に 【8.道は東に方向を変え 【9.370m辺りの尾根を
 見る、中央の木の左  開けた地点で振返る  南東に見る、木立の中に
 倒木をくぐり道なり】  左上に鉄塔が見える】  当道標が小さく見える】

写真jimg2546 写真jimg2600 写真jimg2601
【10.当道標を南東に見る 【11.当道標を南に見る 【12.当道標を北東に見る
 三ツ辻になり、柳谷は  右の道が柳谷へか  尾根を巻き進む道
 右奥に下る道か】  この後急激に下る】  明治地図では原下條へ続く】

写真jimg2568 写真jimg2575 写真jimg2618
【13.当道標を東に見る 【14.道標北西面拡大 【15.道標北西面右部
 祠はなく地蔵のみ建つ  右光背部に  「右 やなぎ谷道」
 後は急傾斜の谷】  「右 やなぎ谷道」】  「ぎ」は変体仮名「起゛」】
写真jimg2582 写真jimg2616 写真jimg2603
【16.当道標を上から見る 【17.道標北西面拡大 【18.当道標を北西に見る
 立像部は手の部分で  宝珠を両手で持つ  奥は萩谷長賢寺道標へ
 4pほど浮出している】  地蔵像か】  右が原浄圓寺方面の道か】

(ここで少し疑問点を書いて置きます。道標の建設を明治を含めそれ以前とし、『高槻の道しるべ』1983年の「これか
 ら先は廃道になっているがおそらく原・川久保をぬける道筋であろう。」とする記述と地図、についてである。
  同書の地図を見る限り一本道にしか見えず、それも南には進まず道標地点で弧を描き北に進んだ後、南東に向う道
 が描かれており、地蔵は西を向くと解釈できる。この時「右」は南を指し、地図に無い道をいきなり沢に下る事になり
 矛盾が生じる。この地図の発行が何時か分からないが、昭和45(1970)年発行の地図を『今昔マップon the web』
 で見ると、小道の経路がこの道標以降本とは異なり、北に廻り込んだ道はそのまま北に向かい、その後途切れている。
  現在(2023年)の状況は北西から来た道がU字型に北へ曲がる頂点から東へ下る道が分岐する三ツ辻である。この
 三ツ辻東部に地蔵は北西に面して立っており、「右」はやはり急激に沢へ下る尾根筋道を示す事になる。原方面へは
 北方面に進むべき(『今昔マップ』明治の地図)と思われ道標の案内が間違っている様に思える。
  当地蔵道標は立派な基壇の上に立つが台石の上には置かれるだけで、固定されていない為、向きを簡単に変えるこ
 とも可能ではあるがどうでしょう。
  考えを変えて、元は辻の北部に建ち南面していたとすれば如何か。同書の地蔵の拡大写真では、祠内に置かれてい
 るように見えこれが無くなっている。又、現在は辻の東部に立ち、東側はすぐに、そこそこの斜面となる位置である。
 そこにセメントで固められた基壇の上に置かれるが、通常なら山側に置くのが自然であろう。近接移動され、向きも
 変わり、元は南〜東を向いて置かれていたとすれば解決しそうである。
  尚、後日、高槻市の「認定路線図」をwebで見ると「萩谷14号線」が載り、同書に近い経路が書き込まれているが、
 当道標のある尾根筋に至る前に南東へと下り始めている様に見える。川に下ってからは東に登り返し、原からの林道
 市後谷線に繋がっているようです。これを案内する為には現在の向きに成らざるを得ないでしょう。)
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