31.羽曳野市西琳寺前の道標

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羽曳野市古市2-3-2 西琳寺門前西、三ツ辻の東部に西を正面に建つ
山型角柱 116x30x18p(頂高8p)
N34.553265 E135.612709


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西面
┌─――――――――――――┐
│  上太子弘川寺西行古跡 │
│右            │
│  たえまつ本坂大峯山上 │
└―――――――――――――┘
(「本」は変体仮名「ほ」で壺阪か)

南面
┌─――――――――――――┐
│左 大坂 さかい 道   │
└―――――――――――――┘

東面
┌─――――――――――――┐
│(なし)         │
└―――――――――――――┘


北面
┌─――――――――――――┐
│         銀治  │
│ 文化十癸酉三月 留治  │
│         □□  │
└―――――――――――――┘
(『大阪の街道と道標』は□□を「綿部」とする)


(『大阪の街道と道標』武藤善一郎、平成11年発行では、98)
(文化十(癸酉)年三月1日とすると、西暦1813年4月1日木曜日となる。)
(新しい台石の上に建てられており、このままの状態で案内先に不都合はないとできますが、少し考えてみましょう。
 行先「上太子弘川寺…」の「西行古跡」は弘川寺とすれば、現在の太子町上の太子と河南町の弘川寺の二ヶ所を示す
 事になり、竹内街道を東に進み石川を越えて分岐すれば良く、「たえまつ本坂大峯山上」は當麻寺、壺阪寺、大峯山
 の三ヶ所とし、これも竹内街道を進むと出来、同じ「右」方向の南への案内で問題は無いでしょう。
  さて南面の「左、大阪、堺」は行先について説明は不要と思いますが、西琳寺の門前に立ち何方に進めば良いか。
 『今昔マップ on the web』で明治の地図を見ると、当道標は東高野街道から外れており、主要道の辻に建てられた
 ものでは有りません。この地図だけを見ると、南面の「左、大坂、堺」が西にある東高野街道に出る事だけを案内す
 る状況と思われます。しかし現実には南への道があったはずで、少なくとも「堺」を案内するなら南へ出て竹内街道
 へ導く方が分かり易いと思います。尚、「簑の辻道標」を見れば「大坂」と「堺」は進む道が異なります。大坂へは
 東高野街道を北に、堺へは竹内街道を西へと案内するようです。
 この様に見れば移設の可能性も高いのではないか。)
(北面の施主と思われる左端の名を『大阪の街道と道標』は「綿部」としていますが「綿新」等にも見え、読めないと
 した。)
(南西100m強、竹内・東高野街道が交わる辻に「羽曳野市古市簑の辻道標」があります。)

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【1.道標を東に望む 【2.道標を南に望む 【3.道標を西に望む
 右台石に載る当道標  正(北)面に紀年銘が  奥(西)70m突当りの
 右80m先に竹内街道】  あり、不自然である】  南北が東高野街道】

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【4.道標西面上部拡大 【5.道標西面中部拡大 【6.道標西面下部拡大
 「右 上太子弘川…」  「…太子弘川寺…」  「川寺西行古跡」
 「たえまつ本…」と読める】  「…えまつ本坂…」】  「…坂大峯山上」であろう】

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【7.道標南面上部拡大 【8.道標南面下部拡大 【9.西琳寺の解説板
 「左 大坂」  「…さかい 道」  法隆寺式の荘厳な
 と読める】  「さ」の上はキズ】  伽藍と推定される】

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【10.道標北面上部拡大 【11.道標北面中部拡大 【12.道標北面下部拡大
 「文化十…」  「…酉三月…」  三名の名前と思うが
 とした】  とした】  左端が読み難い】

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