1.宝塚市中山寺星の広場の百度石(道標では無い)

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宝塚市中山寺2−11−1 中山寺の星の広場南部に南を正面に建つ
尖頭型角柱 160x33x33p(頂高6p)
N34.821984 E135.366782


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南面
┌─――――――――――――――――┐
│(梵字)百度石          │
└―――――――――――――――――┘
(梵字「キャ」は十一面観世音菩薩の種子か)

東面
┌─――――――――――――――――┐
│ 泉州堺             │
│    施主 神南邉隆光     │
└―――――――――――――――――┘

北面
┌─――――――――――――――――┐
│ 文政九丙戌歳          │
└―――――――――――――――――┘

西面
┌─――――――――――――――――┐
│  宿坊 成就院         │
└―――――――――――――――――┘


(文政九(丙戌)年1月1日とすると、1826年2月7日火曜日となる。)
(この位置に置かれていては対象となる堂于が分からないが、中山寺の本尊は十一面観世音らしく、梵字の種子
 に一致しているようです。ここから本堂へ参るのも相応しくなく、移設されていると思う。)
(「神南辺(大道心)隆光」は、堺の元鋳物師で各地に石造物等を建立した人らしく当お百度石や、竹内街道の
 羽曳野市に残る道標や、茨木市安威の大念寺には、天保5年の銘がある供養塔等も残るらしい。
  関係する資料として、「1830年頃までは神南辺隆光、以降神南辺道心の銘が多い」とするweb上の資料も
 あり、他にも多数の石造物を残しているらしい。「堺市堺区寺地町東4-1-14の旭蓮社本堂左奥に神南邊道心
 の墓があり、台座には天保12年9月10日と刻まれる(1841年10月24日日曜日)」とするweb上の資料がある。
 「堺市史には、天保12年2月20日没」とあり、堺市史第七巻別編をADEAC(アデアック):デジタルアーカイ
 ブシステムで見ると、上記日付を入定日としている事が確認できます。
 が何れも、誕生日や没年齢が無く、建造年が無い場合の遡り年数を決定出来ない。
 「大坂狭山市狭山4の報恩寺に、神南辺大道心が仏道に入るまでの前歴を記した天保十一(1840)年七月紀年
 の懸額が奉納されている」とする資料があり解決できるかもしれない。)
(施主「神南邊」が建てた「堺市北区百舌鳥八幡の道標」はこちらを参照下さい。
 百舌鳥八幡の道標には「文政十三年(1830年)」とあり、当お百度石の4年後となります。
 当百度石に書かれた施主「神南邉」の字体は楷書に近く、百舌鳥八幡のものはくずし字で書かれている点等で
 紀年決定の要素に成り得るかも知れず、堺市史にある行状「息子の嘆願による改心」等を考えると、字の上手、
 下手(何時字が書けるようになったか)も決定要素に加味できるかも知れない。失礼であるが当石の紀年部分
 の字は上手くは無いように思う。)
(他の項で問題にしている「邊」「邉」問題に関しては、「邉」となります。)

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【1.百度石を西に望む 【2.広場南端より大願堂を 【3.信徒会館西より北を望む
 左広場の下の大願堂へ  南東に望む、本堂はその東  右手前の赤い手摺に沿って
 直接には行けない】  垣根崖下に舗装道あり】  登ると、星の広場東端へ】

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【4.百度石を北西に望む 【5.百度石東面拡大 【6.百度石北面中部
 左、南面に「百度石」  「神南邉…」  「文政九丙戌歳」は
 右、東面に施主がある】  今の楷書に近い】  西暦1826年となる】

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【7.百度石神南邉部拡大
 旁部「白、ワ、ハ、口」
 として「邉」とした】

【参考】

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【8.百舌鳥八幡宮の 【9.百舌鳥八幡宮の 【10.同、東面下部
 道標を北西に望む  道標南面下部  「文政十三(1830)年」
 左端に道標の南面】  くずし字で「神南邊」】  字が上手くなっているか】
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