10.羽曳野市伊賀の道標

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羽曳野市伊賀140 伊勢橋東詰めより東210m三ツ辻を南へ10m民家角に北東を正面に建つ
尖頭型角柱、130x30.5x30p(頂高9p)
N34.556012 E135.580677


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北東面
┌─――――――――――――┐
│右 大坂 さかい ミち  │
│左 まきの寺 さやま   │
└―――――――――――――┘

北西面
┌─――――――――――――┐
│ ふじい寺 大みね    │
│左            │
│ いせ 者せ つぼ坂   │
└―――――――――――――┘
(「者」は変体仮名「は」)

南西面
┌─――――――――――――┐
│ 堺施主 神南辺隆光   │
└―――――――――――――┘

南東面
┌─――――――――――――┐
│ 文政十二年       │
└―――――――――――――┘


(文政十二(己丑)年1月1日とすると、1829年2月4日水曜日となる。)
(『大阪の街道と道標』武藤善一郎、平成11年発行では、5)
(事前に集めた位置情報から探すのにてこずった道標である。理由は上書では「旧道の樫山」とし、別書では
 「羽曳野市域に入り狭山方面への道との分岐点」としか無かったためである。上記書の大縮尺の手書き図に
 図示されているものの、伊勢橋の東に位置する事が分かるだけで、詳しくは分からない。
  それらしい辻を順に当るのみであったが、近辺の道沿いを探すものの見つからない。
  理由は、竹内街道が着け変わった為か、或は移設されてしまったものかも知れない。現在の地図を見ても、
 また、『今昔マップ on the web』明治の地図を見ても、南へ向う道が無いのです。が見つけた今となって
 は、明治の地図で「五軒屋」の文字の下(南)に破線(小径)が見られ、この位置が辻であったともできる。
 ただこれが主要道であったのかは不明ですが、移設が無く、現在の舗装路も無く当道標の前を旧竹内街道が
 通っていたとしてみる。この時、東から来ると左に寝かせたT字型三ツ辻に突当る辻になる。
  この状況で、東の野々上方面から来ると北東面の「右大坂…」が北へ進む道(竹内街道)を示し、「左…
 狭山」を民家前を南に向かう小径(現在は無い)とすれば問題は無く、北の大阪方面から来た人には北西面
 の「左葛井寺…」が見え竹内街道を東に折れると受け取られ何れも満足できる。即ち新しい道が付け替えら
 れ、南への小径が消えたとすれば元の位置と出来そうである。小径は曳野市河原城に繋がっていたか。
  尚、「まきの寺」は泉州の西国三十三ヶ所、第四番、槇尾山施福寺(槇尾寺、まきのお寺)とした。和泉
 市槇尾山町136にあり、狭山、河内長野と同じ道と出来る。)
(美原ロータリ北側を抜ける竹内街道は少し分かり難いが、西2.3qの「松原野市岡4の道標」に続きます。)

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【1.道標を南西に望む 【2.道標を西に望む 【3.道標を遠く西に望む
 新道から民家への進入道  旧道?からは北東面が  左が旧道で、右が新道か
 のように見える】  正面に見え、右大坂】  左端の塀前に当道標】

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【4.道標から東を望む 【5.南東面紀年部拡大 【6.北西面拡大
 大阪から来て東の伊勢  「文政十二年」  「いせはせつぼ坂」は
 は左に曲がるようだ】  と読める】  伊勢、長谷寺、壺阪寺か】

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【7.道標南西面拡大 【8.道標南西面上部 【9.道標南西面下部
 「堺施主神南辺隆光」  「堺施主」としたが  「神南辺隆光」の
 と読んだ】  怪しげな字である】  「辺」は「邊」ではない】

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