5.河内長野市楠町西の八十八ヶ所遙拝碑(道標ではない)

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河内長野市楠町西1084-1 西高野街道に中高野街道が合流する交差点南部に北を正面に建つ
尖頭型角柱 162x31x30p(頂高9p)
N34.470968 E135.561939


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北面
┌─――――――――――――――――┐
│(座像)西国八十八ヶ所遙拝道   │
│         こ連よ里壱田丁 │
└―――――――――――――――――┘
(「連、里」は変体仮名「れ、り」)
(「田丁」は「町」であろう)

西面
┌─――――――――――――――――┐
│     施主泉州堺       │
│為父母法界            │
│      小深氏半兵衛     │
└―――――――――――――――――┘
(「州」は「刀」を三つに刻む)

南面
┌─――――――――――――――――┐
│ 天保八丁酉年三月        │
└―――――――――――――――――┘

東面
┌─――――――――――――――――┐
│  発起             │
│    神南辺大道心       │
└―――――――――――――――――┘


(天保八(丁酉)年三月1日とすると、1837年4月5日水曜日となる。)
(『大阪の街道と道標』武藤善一郎、平成11年発行には、未記載。)
(進むべき道を指定しないため道標とはしません。現在置かれる位置に立つと、辻からは西寄りの登りの道と受取れ
 るが、一丁進んでみると「遙拝所」の痕跡はなく高校の校門となっている。振返って東を見れば遠望は素晴らしく
 金剛山を真中に足元の街並みも一見に値するが、遙拝する方向ではないと思う。因みにこの石標より左(東より)
 に一丁下ると、道の西側に小さな祠と、現代に作られた「大峯山三十三度参拝」の碑が置かれ、此方の方が遙拝所
 には相応しく思える。
  ただ、『今昔マップ on the web』明治の地図でギリギリに見える当辻から南西に山を登った位置に「大師」と
 する「卍」の下に記念碑が書かれており、これか、或いはその先山頂に登れば四国が望めるのかも知れずそれらを
 案内した可能性が高い。現在は高校の敷地になり行けないかと思う。)
(施主ではないが発起人として「神南辺大道心」の名が見える。多く「邊」とする中で「辺」が使われており、自身
 が書いたものでは無いかもしれない。)
(中高野街道の北約4q程に神南邊を施主とする「大阪狭山市駅前の道標」があります。)

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【1.標石を南東に望む 【2.標石を南に望む 【3.標石を北に望む
 左へ下る西高野街道  右当標石、左解説板に  奥(北)中高野街道
 右、暁光高校前へ】  当石の解説はなしへ】  左から西高野街道】

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【4.標石を南西に望む 【5.標石北面下部左 【6.標石西面下部
 奥(南西)が遙拝所へ  「こ連よ里壱田丁」  「施主泉州堺」
 登る道では無いか】  「これより一町」】  「小深氏半兵衛」】

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【7.標石を南面拡大 【8.標石東面中部 【9.標石東面下部
 「天保八丁酉年三月」  「発起」  「神南辺大道心」
 と読める】  と読める】  「邊」とせず「辺」を使う】

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