29.大阪狭山市駅前の道標

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大阪狭山市狭山5−784−1 大阪狭山市駅南踏切東の四辻南東部歩道上に北を正面に建つ
尖頭型角柱 91x20x18p(頂高4p)
N34.503617 E135.557711


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北面
┌─―――――――――――――――┐
│  たき多にふどう       │
│左         狹山新丁  │
│  古ん古う山ミち       │
└――――――――――――――――┘
(「古」は変体仮名「こ」)

西面
┌─―――――――――――――――┐
│     寺地□        │
│ 施主堺 中嶋屋伊兵衛     │
└――――――――――――――――┘
(□は「丁」か「山」か)

南面
┌─―――――――――――――――┐
│(なし)            │
└――――――――――――――――┘

東面
┌─―――――――――――――――┐
│      海 田       │
│  世話人           │
│      神南邊       │
└――――――――――――――――┘


(『大阪の街道と道標』武藤善一郎、平成11年発行では、415
 『神南辺隆光と関係石造物』月山渉、2012年発行には、40)
(北面「たき多にふどう、古ん古う山」は「滝谷不動、金剛山」でよいでしょう。中央下部にある「狹山新丁」は
 当地点の住所でしょうか、この様な書き方はあまり見た事がありません。多くは「道」とする。)
(西面の「施主堺」の右下「寺地」に続く「□」は、隙間なく字があるとすれば「丁」「山」と見えるが、月山渉
 の資料では「田丁」としている。この読みが正しいなら、「田」は左の「…屋伊兵衛」の「屋」と「伊」の間あ
 たりに書かれているとなり、「寺地」から少し離れて書かれている。尚、堺市に「寺地町」が現存する。)
(東面の「世話人」は二名とし、「海田」「神南邊」は別人と考える。)
(『大阪の街道と道標』は、中高野街道上としており南へ続く道が高野山への道であるが、この道標は左(南東)
 へ分岐し滝谷不動、金剛山への案内しかしていない。多くの人が案内して欲しい「高野山」を一顧だにしない点
 で特殊な道標と言えるかもしれない。すぐ南横にこれより古く見える道標があり文字が読み難くく案内する先を
 「右、高野、左、吉野」とするのみで、南西方面の行き先をを補完する目的で建てたものかも知れない。
  尚、現在の『歴史街道』と表記する新しい標石には、南東方向に矢印を付け「おおみねさん/吉野道へ」とし
 ている。)
『今昔マップ on the web』明治の地図を見ても、ほぼ現在の様子に近く、報恩寺方面から南東行してきた道
 を道なりに進むと、高野山には向かわず、右の中高野街道に分岐する必要がある為、上記の古い道標が必要であ
 る事は明確である。)
(すぐ南にある「大阪狭山市駅前の古い道標」は此方を参照下さい。
 北西250mに「大阪狭山市池尻の道標」があります。
 滝谷不動への道をうまく進めば「富田林市錦織の道標」、神南邊発起の道標に繋がる。)

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【1.道標を南東に望む 【2.道標を東に望む 【3.道標を北に望む
 中央に当道標  右(南)高野山へ  左に大阪狭山市駅
 右に新しい石標】  赤い建物後ろは滝谷不動へ】  左(北西)は報恩寺へ】

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【4.新石標を南に見る 【5.道標を南に望む 【6.駅西から道標を南東に望む
 南北を「中高野街道」  手前が当道標  赤い建物の左下に当道標
 東西を「吉野道へ」とする】  右後方に「古い道標」】  中高野街道は踏切を渡り右へ】

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【7.道標東面上部 【8.道標北面上部 【9.道標西面上部
 半ばより下に  「左/たき…/古ん…」  「施主堺 中…」の
 「世話人」と読める】  と読める】  「中」右上に「寺…」】

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【10.道標東面下部 【11.道標北面下部 【12.道標西面中部
 「海 田」  「…どう」「…ミち」  「寺地…」
 「神南邊」とした】  の間に「狭山新町」】  は施主の住所か】

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