32.富田林市錦織の道標

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富田林市錦織中1−14 近鉄滝谷不動駅南、1号踏切西40m、東高野街道と府道202号交差点の東角に北西を正面に建つ
尖頭形角柱 155x31x32p(頂高9p)
N34.480416 E135.585753


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北西面
┌―─――――――――――――――――――┐
│すぐ 満き尾山             │
└――――――――――――――――――――┘

南西面
┌―─――――――――――――――――――┐
│右 瀧谷山江十丁            │
└――――――――――――――――――――┘
(「江」は右端に小さく、「へ」の意味)

南東面
┌――――――――――――――――――――┐
│すぐ ふじゐ寺             │
└――――――――――――――――――――┘

北東面
┌――――――――――――――――――――┐
│  発起 神南邊            │
│ 堺                  │
│  施主 何某             │
└――――――――――――――――――――┘

(『大阪の街道と道標』武藤善一郎、平成11年発行では、104)
(『神南辺隆光と関係石造物』月山渉、2012年発行では、大41)
(行先を見ると、「満き尾山」は槇尾山施福寺として和泉市、「瀧谷山」は瀧谷山不動明王寺(瀧谷不動
 尊)として、「ふじゐ寺」は葛井寺として問題は無いでしょう。槇尾山は南西へ、滝谷不動は南東へ、
 葛井寺は北東から北へ向う事になりそうです。現在の道標の立ち方を見ると向きが替わっており、元は
 90度時計回りに回転させて、置かれていたと思います。
(『大阪の街道と道標』では東高野街道の沿道にある道標として載っていが、この道標を見ると、高野山
 への案内が無い。現在この道標の南西側には電柱が密接しており、非常に読み難いが「右、瀧谷山へ十
 丁(約1.1q)」と案内しており、これが一番の目的地である様に思う。これの背後に施主、発起人が
 有り、左右の面には槇尾山、葛井寺が案内されており、通常ならば「高野山」があって然るべきと思う
 が何故でしょう。
  私見では有りますが、当時ここには「高野山」を案内する別の案内があり、それには南東の「瀧谷山
 不動明王寺(瀧谷不動尊)」が無かったか、目立たなかった。そこで、発起人である神南邊が、堺の信
 心の篤い施主に勧めて、この道標を建てさせたとする。施主は売名を嫌い、「何某」とし、高野山参り、
 或いは槇尾山参詣の帰りの折にでもとして、復路にでも見える様に現南西面を北西面として建てたので
 はないか。)
(北東から南西の道は『今昔マップ on the web』明治の地図で「東高野街道」とあり、道標の邪魔をする
 電柱にも、よく目立つ「東高野街道、河内長野方面/羽曳野方面」の案内が付けられており、ほぼ当時
 の状況に等しいと想像する。)
(この辻からが相応しいかは分からないが、北の廿山(つづやま)を経由し、南海大阪狭山市駅に出ると
 「大阪狭山市駅前の道標」があり、世話人とある神南邊の「滝谷不動」への一連の道標として繋がる。)

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【1.道標を南東に望む 【2.道標を北西に望む 【3.道標を北東に望む
 奥、踏切渡り滝谷不動へ  「すぐ葛井寺」は誤り  電柱後ろに当道標
 「槇尾山」と矛盾する】  右折が正解でしょう】  滝谷不動の案内が見えず】

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【4.道標を南西に望む 【5.道標北西の拡大 【6.道標北東面上部拡大
 奥、河内長野、高野山  「すぐ 満き尾山」は  「堺」は「発起」
 方面への案内は無い】  「槇尾山」でしょう】  「施主」両方に係る】

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【7.道標南西面中部(右側) 【8.道標南東面下部拡大 【9.道標北東面下部拡大
 「瀧谷山…」とした  「すぐ」の下になる  「神南邊」が発起人
 右、南東は正解だが】  「ふじゐ寺」は葛井寺】  「何某」が施主】

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【10.道標南西面下部 【11.道標北東面「邊」部
 「十丁」の右肩に  くずし字である
 小さく「江」がある】  「邊」とした】
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