34.東成区深江南法明寺前石橋(道標ではない)

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大阪市東成区深江南3−16−28 法明寺門前に南北に架かる石橋。両端の石の側面に銘がある
石板 東側石、長さ257x幅66x厚17p、東側接ぎ石長さ55x幅66x厚17p、西側石、長さ311x幅67x厚17p、橋の幅354p
N34.669502 E135.560216


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東側側面
┌─―――――――――――――┐
│文政八年酉十月       │
│   慈賢代        │
└――――――――――――――┘

その間
┌─―――――――――――――┐
│(なし)          │
└――――――――――――――┘

西側側面
┌─―――――――――――――┐
│發起人堺          │
│    隆光        │
└――――――――――――――┘


(『隆光と関係石造物』月山渉、2012年では、q蜊2)
(文政八(乙酉)年十月1日とすると、西暦1825年11月10日木曜日となる。)
(現在川や溝は無いが、山門へのスロープ状の取り付け道として利用される。形状から見て橋であった事は
 間違いないと思う。現状は幅が広げられていると想像され、元は三石を並べて橋にしていた様に感じる。
 即ち、現状は中央石の左右に小さい石を敷き詰め、左右の石をその外側に置いたものと見える。尚、東側
 の石は割れたものか、接いだものかは分からないが、二分されている。両端の石は左右が2p程盛り上げ
 られ幅10p程の縁を持っており、その側面となる厚み(高さ)は17p程あるが南側はやや薄いかも知れな
 い。この側面(桁か)となる部分に、紀年銘と発起人が書かれているが、明確な「施主」はない。門に向
 かって右側(東側面)に紀年と施主の代表者かも知れない、僧侶の名の様なものがあり「代」と記されて
 いる、一方の西側に、発起人と書かれた「隆光」がある。当時の石橋としては大きなものと思う。現在の
 橋の幅は354p程あるが、元3石から出来ていたとするなら193p程になると思う。)
(橋の北西に解説板があるが、細かな事は書かれていない。下に書き出して置く。)
(西面に「發起人」とあり「隆光」本人が書いたものか分からないが、他の項で問題にしている「邊」「邉」
 問題からは除外とする。)
(明治の地図『今昔マップ on the web』では明確な川や溝は確認出来ない。100m程南を通る暗越奈良
 街道が土手上を通っていることから、周囲が低地であった事は想像できる。)
(神南邊に係る同様のものに「堺市熊野町東常安寺入口の敷石」があるが、こちらは小さい。)

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【1.西端石を北東に望む 【2.法明寺を北に望む 【3.東端石を北に望む
 白い花の右辺りに  現橋は5列構造だが  割れたものか2分割
 「発起…隆光」がある】  元は3列だと思う】  北石の継目上に紀年銘】

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【4.西端石側面の拡大 【5.常安寺の解説板 【6.東端石側面の拡大
 「發起人堺」とある  「法明寺石橋の由縁」  「文政八年酉十月」
 「隆光」と読める】  として解説がある】  「慈賢代」と読める】

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【7.入口北側を東に望む 【8.山門より南を望む 【9.東端石接続部の拡大
 「隆光」の上部に  緩やかなソリを持つ  移設時に折れたものか
 神南邊は無さそう】  橋は2倍程度拡幅か】  元々2分は考えにくい】


『法明寺石橋の由縁』
 かって深江では菅を栽培するために水路を巡らせていました。法明寺の山門
前にも昭和の中頃まで疏水が流れていて、そこに架かる石橋を江戸時代の末
(1825年)に寄進したのが二十二代住職となった旭隆慧光(キョクリュウ
エコウ)の父神南辺隆光なのです。
 彼は大和川と竜田川の合流する辺りで生まれ、長じて河内国渋川郡東足代の
鋳物師、上田利兵衛に弟子入りし、燗鍋を作る鋳造工として働いていました。
生来優れた技量を持ちながらも放埒な暮しぶりから、幼い息子を法明寺に預け
堺に移り住む仕儀となり、親子は離ればなれになってしまいます。時は移り、
成人し僧侶となった息子は父親の消息を知り、泣きながらすさんだ生き様を
厳しく諫めました。父は深く悔い改め仏門に入り「隆光」と名乗り、これより
一念発起仕事に励み、近畿一円の神社仏閣のお百度石、旅人のための道標や
標示石など多くを寄進しました。
 法明寺の石橋は今も健在ですが隆光親子の逸話を知る人は今では絶えて久しく
なりました。法明寺山門前石橋ゆかりの昔話、かつての深江の風景を偲びながら
語り継ぎたいものです。

『隆光と関係石造物』から
息子の法名は「旭隆慧光(きょくりゅうえこう)」といい、法明寺二十二代住職。
大和国斑鳩の吉田(きちでん)寺住職兼任、慶応三(1867)年六月七日没。
法明寺過去帳に住職「慈賢(じけん)」二十代住職。「旭隆慧光」を弟子として
取ったのではないか。天保十一(1840)年没。
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