21.太子町山田の道標

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太子町山田1948 町立竹内街道資料館前から登り100m、道東側に北東を正面に建つ
尖頭型角柱 99x31x30p(頂高6p)
N34.516529 E135.657859


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北東面
┌─―――――――――――――――┐
│右 大坂 さか…        │
└――――――――――――――――┘
(「か」は上部が見えるのみ)

北西面
┌─―――――――――――――――┐
│ 左海             │
│    神南邉…        │
└――――――――――――――――┘
(「邉」の下に文字の上部が見える)

南西面
┌─―――――――――――――――┐
│(なし)            │
└――――――――――――――――┘

南東面
┌─―――――――――――――――┐
│ 山田村            │
│左 親鸞聖人御舊(蹟)     │
└――――――――――――――――┘


(『大阪の街道と道標』武藤善一郎、平成11年発行では、14)
(『神南辺隆光と関係石造物』月山渉、2012年発行では、大37)
(案内先を確認しておきます。北東面「右 大坂 さか…」は「右、大坂、堺」として異論は出ないでしょう。
 南東面の「左 親鸞聖人御舊蹟」は「鸞」のカンムリ部分が、くずし字の様に書かれているだけで、これも問
 題には成らないでしょう。)
(南東面の行先「親鸞聖人御舊蹟」は太子町山田の仏陀寺に「聖人腰掛石」があるようで、ここを示すものなら
 現在地点山側の舗装された竹内街道から分岐し谷を渡り山田に続く野道があり、案内に矛盾はないが、如何せ
 ん竹内街道を歩いていては見えない。多分元は、左右の案内が両方とも見える様に建てられていたと思う。
  又、「左」の右下に刻まれる「山田村」について、公文書館デジタルアーカイブの「天保河内国絵図」にも石川郡
 に「山田村」がありこれも問題はないが、なぜこの様に小さく薄く刻んだものかが気になる。近辺に同じよう
 な「親鸞聖人御旧蹟」が有ったりすれば、明確にする為に後日追刻した等と考えるのはどうでしょうか。)
(すぐ南側には「当麻奥院の道標」があります。)
(別項の「邊」「邉」問題に関しては、楷書で明らかに「邉」としており、施主とはありませんが本人の書いた
 ものとして良いと思う。その下部に名前らしき文字の一部が見え「大…」としたいが横線が二本ある様に見え
 不明とします。尚、『神南辺隆光と関係石造物』ではこの部分を「大(道心)」としている。)
『今昔マップ on the web』明治の地図を見ると、南西に谷を越える破線の道が見える。)

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【1.道標を北東に望む 【2.道標を南西に望む 【3.南東下への野道から
 奥、登って奈良へ  奥、下り大阪方面へ  道標を北西に望む
 中央の石が当道標】  手前当道標の左も道】  右側が当道標】

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【4.道標を南西に望む 【5.道標南西面中部 【6.道標南東面上部
 「右、大坂さか」は  「大坂さ」部分  「坂さ…」部分
 非常に見にくい】  「坂」が読みにくい】  「さ」の下は「か」でよいか】

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【7.道標南東面拡大 【8.道標南東面上部 【9.道標南東面中部
 「左 親鸞聖人御…」  「左」の右側に小さく  「親鸞聖…」の「鸞」の
 「舊」の上部は見える】  「山田村」としたが】  上部はくずし字に近い】

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【10.道標北東面上部 【11.道標北東面下部 【12.道標北東面下部
 右側の「左海」は  「神南邉…」  「邉…」の下
 「サカイ」で「堺」か】  下部の文字は「大」か】  「大」では無さそう】

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【13.左、南西に下る道を望む 【14.谷筋で西を望む
 奥、下って谷川へ  現在も橋が有り
 右舗装路は竹内街道】  渡ってR166に出る】
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