尼崎市久々知1丁目4 公園南東部の土塀外の生垣、四辻北西部に東南を正面として建つ
(2025/7/19「15.尼崎市久々知1広済寺門前の道標」より分離作成)
角柱 122x32x34p(頂高11p)
N34.746809 E135.432302




南東面
┌─――――――――――――――――┐
│近松翁門左衛門墓所 │
│ 従是左廣済寺 │
└―――――――――――――――――┘
北東面
┌─――――――――――――――――┐
│近松翁門左衛門墓所 │
│ 従是右廣済寺 │
└―――――――――――――――――┘
北西面
┌─――――――――――――――――┐
│(なし) │
└―――――――――――――――――┘
南西面
┌─――――――――――――――――┐
│(ほぞ穴) │
└―――――――――――――――――┘
(石の形状、南西面のほぞ穴、明治の地図にある川(井)等から、橋の親柱であろう。竿を受ける為と思われるほぞ
穴の位置と、廣済寺を案内する「右」「左」の面の関係から、現四ツ辻の西側を南北に流れていた川に架かる橋の、
東詰め、北側に置かれていたと考える。現在、川は暗渠になっていると思われ、橋の跡もないが、一辻南の交差点
からは姿を現わし、西に流れていると思われる。道拡幅等による多少の移動はあるも、元位置にあるとしたい。)
(建立年については、「15.尼崎市久々知1広済寺門前の道標」との関連を考えたくなるが、「廣済寺」の書き方
が異なり、同一人物とはし難く、不明である。)
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【1.道標を北西に望む |
【2.道標を北東に望む |
【3.道標南東面拡大 |
【4.道標北東面の拡大 |
左(西)旧有馬道へ |
右(東)旧有馬道下坂部へ |
「近松翁門左衛門墓所」 |
「近松翁門左衛門墓所」 |
90m先、広済寺門前】 |
停止線辺りに川があったか】 |
「従是左廣済寺」】 |
「従是右廣済寺」】 |
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【5.道標南東面下部拡大 |
【6.道標北東面下部拡大 |
【7.道標を西に望む |
【8.道標を東に望む |
「従是左廣済寺」 |
「従是右廣済寺」 |
左奥、西旧有馬道へ |
ほぞ穴には鉄の |
左は西方向となる】 |
右は西方向を示す】 |
石東陵下部欠損か】 |
錆び痕が残るか】 |
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【9.川の跡かもしれない |
【10.道標上部を南西に見る |
石垣の窪みとマンホール |
角柱としたが庇状に |
延長上に公園の池がある】 |
4p程二面に張出す】 |
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【11.尼崎の道標】 |
道標の左後にある「有馬道」碑。
現状当辻は四辻であるが、明治の地図では三ツ辻のようで、東西の道が有馬道になっていた様である。

有馬道
神崎川・猪名川・藻川が合流し、京都から
四国・九州へ向かう航路の泊まりとして栄
えた町、神崎。
有馬道は、その神崎の宿場町を起点とし
次屋・下坂部・久々知を通り、昆陽・小浜
から有馬へと続く。
太閤秀吉が有馬大茶会へ行くために通っ
た道でもある。江戸時代には近松門左衛門
を始め多くの人達がこの道を通り、久々知
妙見宮(広済寺)を訪れた。
以来、有馬道は人々の往来が絶えなかっ
たと言われている。
平成二十五年五月十七日
創立六十周年記念事業
小田会
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