尼崎市久々知1丁目3−27 広済寺門前の東部に南を正面として建つ
(現近松公園の西隣、この西60mに「16.尼崎市久々知1広済寺西の道標」がある。門前東西の道は有馬街道。)
尖頭型角柱 120x南面30x30.5p(頂高4p)
N34.746615 E135.431434




南面
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│近松翁墳墓 │
│ 是より東二丁久々知村廣齊寺尓あり│
└―――――――――――――――――┘
(「松」は、「木」の下に「公」としている。)
(「是より」の「より」は現在欠損。)
西面
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│ 實川延二郎 建之 │
└―――――――――――――――――┘
北面
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│ 取次 馬渕万次郎 │
│ 上坂べ │
│ 石長 │
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東面
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│明治四十二歳 十一月上旬 │
└―――――――――――――――――┘
(明治四十二年は1909年となる。)
(『尼崎の道標を訪ね歩く』平成27年荒木勉では7)
(同書に、「もとは有馬街道間道と若王寺に抜ける細い村道の交差点に立っていた」とある。
同書の説明では位置が明確ではないが、「是より東二丁」を手掛かりに、有馬道を西に約二丁(218m)進むと
N34.747542 E135.429701
辺り(上坂部3−38−1)の三ツ辻(現、筋違い四辻)辺りではないかと思う。
四辻南東部に、西面、或いは北面して建っていたとすれば見易いかと思う。)
(同じく、同書の解説で、「實川延二郎、後の二代目實川延若、明治10(1877)〜昭和26(1951)年」としている。
Wikiでは「1915(大正4)年に二代目襲名とあり、建立年との不整合はない。
近松物が得意であったかは分らないが、「最後の上方役者」と称されたようで、建てるに相応しい方である。)
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【1.道標を東に望む |
【2.道標を北西に望む |
【3.有馬道を西に望む |
【4.道標南面の拡大 |
奥(東)有馬道下坂部へ |
右から二番目 |
左奥、道が切れる辻に |
「東二丁久々知…」 |
同170m先北東若王寺へ】 |
背の低い石が当道標】 |
16.広済寺西道標】 |
と読める】 |
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【5.道標東面 |
【6.道標北面 |
【7.道標北面拡大 |
「明治四十二歳十一月上旬」 |
全体は粗い面とし |
右側「取次/馬渕…」 |
歳は年と同じ】 |
記入廻りのみ平滑】 |
左側「上坂べ/石長」は工人か】 |
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【8.尼崎の道標】 |
2025/7/19 訂正
【訂正等】
旧:「【元位置にある道標風の石碑(新しそうなので、独立せずここにとどめた。)】
上部に削り残しを付けた角柱風、(サンダーやカッターを使用したように見える。)
34.746793 E135.432276」
としていたものを「41.尼崎市久々知1近松公園南東の道標」として独立させた為、訂正、削除、写真差替え。
【訂正】
旧:「これを明治の地図で見ると、現在の近松公園南東部の四辻であろうと思われるが、当時は、三叉路として、
描かれており、
N34.746793 E135.432276
辺りと思われる。(現、門前からは170m東。)
尚、現在その地点には、別の石碑と記念碑が建っている。」
としていたが、訂正。
【追加】
山門西に有る解説板

広済寺と近松門左衛門
広済寺は江戸時代の正徳年間(一七一一〜
一七一六)に、日昌上人が法華道場として再建し
た。近松門左衛門はその際、建立本願人として貢
献した。その後もたびたび広済寺を訪れ、ここで
作品を執筆したと伝えられている。
境内には近松門左衛門の墓があり、表には近松
あのくいんもくいにちいちぐそくこじ
門左衛門の戒名・阿耨院穆矣日一具足居士と妻の
戒名が、裏には近松の没年月日・享保九年十一月
二十二日(一七二四)が彫られている。
昭和四十一年に、国指定史跡に指定された。
尼崎市
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