7.大阪市鶴見区徳庵2−2−4の道標(河内国内)

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大阪市鶴見区徳庵2−2−4 現徳庵小橋北詰下、民家庭南東部に南を正面に建つ
常夜灯竿部 台石20x55x50p、竿部88x26.5x26.5p、火台15x47.5x46p、火袋29x31x30.5p、笠部22x62x64p、宝珠29x21x20p
N34.697481 E135.582506


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南面
┌―─――――――――――――――┐
│柳               │
│  常夜燈           │
│谷               │
└――――――――――――――――┘

東面
┌―─――――――――――――――┐
│右 すみノど 能ざき      │
│          道     │
│すぐ 京 やなぎ谷       │
└――――――――――――――――┘
(「能」は変体仮名「の」「野崎」)

北面
┌―─――――――――――――――┐
│慶応元乙丑年  願主      │
│八月建立      源助    │
└――――――――――――――――┘

西面
┌―─――――――――――――――┐
│         幸 介    │
│         六兵衛    │
│    徳庵   七良兵衛   │
│願力講  世話方 清兵衛    │
│         久…     │
│         吉兵衛    │
│         □こ□    │
└――――――――――――――――┘


(慶応元(乙丑)年八月1日とすると、西暦1865年9月20日、木曜日となる。慶応は4月7日より、この年閏5月あり。)
(『大阪の街道と道標』武藤善一郎、平成11年発行には未記載)
(形態からして、京都柳谷観音の常夜灯に同寺への案内を入れたものに違いない。柳谷観音へは何処で淀川を渡るかの
 問題が残るが、この辺りでは北に向かう道を指すであろう。明治の地図を見ると、橋を渡った後、真っすぐ西に進み
 10m程で北向きに進む道に突当り、右折すると中茶屋に出る。明治に言われた枝切街道かもしれない。
 一方「右、すみノど」は住道として、明治の古堤街道を東に進み、「能ざき」野崎は更にその先で、当地点からは右
 に分岐していた寝屋川右岸の道を示すとすれば、護岸の整備や、辻の形状の変化等による多少の移動は避けられない
 ものの、ほぼ現在地点に置かれていたとして良いであろう。)
『今昔マップ on the web』明治44年地図では寝屋川右岸の道路が達路以上と見えるが、明治17頃の地図では不明です。)
(旧徳庵橋の南詰に「大阪市鶴見区今津中4の道標」があったとされる。)

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【1.道標を南西に望む 【2.道標を西に望む 【3.道標を南西に望む
 最左端歩道を登り徳庵小橋へ  電柱の右の常夜灯の  民家の庭先に
 カイヅカイブキの右に道標】  竿部に案内がある】  置かれているか】

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【4.道標を北西に望む 【5.道標東面上部 【6.道標北面上部
 竿部左面(南面)に  「右 すみ…」  「慶応元乙丑…」
 「柳谷/常夜燈」とある】  「すぐ 京…」】  「八月建立」】

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【7.道標北東20mの地図 【8.道標東面下部 【9.道標北面下部
 北を下にして描く  「…ど 能ざき」  「願主」
 (2)辺りに当道標が建つ】  「…やなぎ谷/道」】  「源助」】

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【10.道標西面上部 【11.道標西面中部 【12.道標西面下部
 「願力講」と  「徳庵」  右から「幸介…」
 大書する】  「世話方」】  等としたが、怪しい】

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【13.大阪市鶴見区の道標】

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