貴志川線(和歌山鉄道) 昭和42年9月の現況

貴志川線は元の和歌山鉄道で昭和32年11月和歌山電気軌道に合併の際同社鉄道線となり昭和36年11月和歌山電気軌道が南海電鉄と合併となったため南海電鉄貴志川線となった。

沿革

当線の発祥は大正2年4月1日和歌山駅(注・現在の紀和)-山東間の軽便鉄道の免許を受けた事にさかのぼる、翌大正3年6月27日山東軽便鉄道株式会社を設立、路線はまず大正5年2月に大橋(現・和歌山市大橋東詰付近)山東(現・伊太祁曽)間8.2kmが開通し蒸気機関車による運転を開始(当時蒸気機関車3両、木造4輪客車6両)し、翌大正6年3月大橋-中ノ島(現・紀和駅付近)-間2.0kmを延長したが、その後国鉄紀勢西線の建設に伴い鉄道省の要請により大正11年7月中ノ島-東和歌山間(実際は中ノ島-田中口間を撤去、田中口から東和歌山までを延長したと思われる)

昭和6年4月社名を和歌山鉄道株式会社と改称、昭和8年8月には伊太祁曽-貴志間を6.3kmを延長開業し路線としてほぼ現在の姿となった。
なおこの間東和歌山-蔵前町(現・南海電鉄和歌山市駅付近)の延長計画を建て昭和3年5月免許を受けたが実現に至らぬまま失効している。

さて開通当時より蒸気列車で営業を続けてきた当線も昭和4年11月には最初のガソリンカー(キ101~103、定員46人の4輪ガソリンカー)が運転され旅客輸送は漸次ガソリンカーに切り換えられた。
その後ガソリンカーと蒸気列車では運用効率が悪く経営に困難をきたす状態となったため、また戦争による燃料統制によりガソリンが入手難となってきたので路線電化にふみ切り、まず昭和16年12月東和歌山-伊太祁曽間の台 期電化工事が完成、引き続き昭和17年12月伊太祁曽-大池間の第2期工事、昭和18年12月31日には残る大池-貴志間の第3期工事が完成し全線の電化をみた(電化当初に使用された車輌は琴平参宮電鉄から譲り受けた木造4輪電動客車50~53号で、その後キハニ201・ 202及びキ103がそれぞれ電動車化された)。
しかし、戦争末期から終戦後昭和23年にかけては資材難その他の事情で電車運転も思うに任せず蒸気列車が再び旅客輸送に活躍していた、しかしその後電車運転も軌道に乗り在来車の改造、譲受車の投入等により次第に車輌のラインアップも充実されてきた、そして昭和32年11月和歌山電気軌道との合併があった。

沿線と設備の概要

当路線は和歌山市から東に延びる数本の平行した山脈と、これらにはさまれた「ウナギの寝床」のように東西に細長い平野をそれぞれの平野を流れる河川に沿って東西に縦走する鉄道の一つで、当線から北には国鉄和歌山線(紀ノ川平野)、また南には同じく低い山脈を隔てて野上電鉄がある。

沿線は柿、桃、みかん等果実の栽培が盛んで、秋には松茸山もにぎわう、また和歌山県下の代表的な官弊大社(戦前)として古い歴史を持つ日前宮、竃山(かまやま)神社、伊太祁曽神社があり戦時中はいわゆる「三社詣り」の人々でにぎわったものである、このほか沿線には元当社が開発した大池遊園、最近完成をみた山田ダム等家族連れのハイキングに適したコースもある。

現在、路線総延長は全線単線で延長14.3km、ゲージは1067mm架線電圧600V、変電所は伊太祁曽(500kWシリコン)及び日前宮(500kWシリコン・無人昭和42年9月完成)で対向駅は日前宮、岡崎前、伊太祁曽、大池遊園となっている。

運転系統は東和歌山-貴志間の他朝のラッシュ時のみ東和歌山-伊太祁曽折り返しが入る、所要時間は下り(東和歌山-貴志)36分、上り37分、表定速度は約23.5km/h(ただしラッシュ時のみ上り下り共42~44分)、列車編成はMcMc、McTc、McTMc等で昼間閉散時は単車運転をする事もある。

車輌の現況

現用車輌は電動客車8両、制御客車2両、付随客車2両、貨車1両系13両で、昭和29年~31年に総括制御化を含む全面的な改造と大幅な車輌の入れ換えを行い面目を一新し、その後昭和39年2月には集電装置をトロリーポールからパンタグラフに交換している。

各車両の履歴はほとんど1両ごとにそれぞれまちまちで、他社よりの譲り受け車輌も多く、地方小私鉄の苦悩の歴史をまざまざと物語っている、なお現在制御器はMK形総括制御器、制動装置はSME(非常直通式)方式に統一されている。

モハ200形(201)

昭和6年9月小島車輌製の新車として当時の和歌山鉄道が購入したもので、最初はキハニ201(ガソリンエンジン最大75kWx1備付け)として誕生した。
その後昭和17年8月電動客車に改造し、昭和30年3月には総括制御に交換された、台車・電動機についても昭和27年12月及び昭和28年3月にそれぞれブリル27-GE-1及びTDK48.5kWx2に交換されている。
なお電動客車のうち、車体長約11m~12mのものをモハ200形、約13m~14mのものをモハ600形と区別しているが、モハ200形はいずれも前身がガソリンカーであるため特有の屋根の浅い車体幅のやや広い外観をもっている。


モハ200形(202)

昭和8年10月日本車輌製でモハ201と同じくガソリンカー(キハニ201)として新造したものであるが同じく昭和17年8月電動車(モハニ)に改造されている、昭和30年3月に総括制御器に交換されているほか台車・電動機についてもほぼ同一時期に同一の交換を行っているなど、昭和26年7月荷物台撤去及び自連取り付けを行っている他は(モハ201の自連取り付け年月不詳)経歴としてはモハ201とほとんど同じ途を歩んでいる。

モハ200形(205~206)

昭和22年10月江若鉄道からガソリンカーを譲り受け昭和23年10月に電動客車に改造したもので昭和6年3月川崎車輌製である、その後昭和30年2月には他の車輌と同じく総括制御に改造しているほか、昭和28年8月に主電動機取り換え(GE52、22kWx2)また台車は昭和27年12月にブリル27-GE-2に、さらに昭和33年2月にブリル27-GE-1に取り換えるなど数字にわたる改造がなされた、車体も昭和34年に全面的な更新修理を行っている。

モハ600形(601~602)

車体は阪急60形、台車は南海からブリル27-E-11/2をそれぞれ譲り受けて昭和30年11月にナニワ工機で車体更新並びに整備を行って増備したものである、電動機は旧モハ502のもの(TDK56kWx2)を装備、総括制御方式で定員も100人と多く、貴志川線の代表的な存在である。

モハ600形(603)

旧モハ501(昭和23年7月東急電鉄から譲受・木造車)の車体振り替え・車番変更を行ったもので、車体は阪急80形を譲受け昭和31年3月にナニワ工機で改造整備を行い、車番は501から603となった。
なお旧モハ501時代の昭和30年2月に総括制御器に交換し台車も昭和27年12月の旧モハ501時代に当初のブリル27-GE-2からブリル27-GE-1に、さらに昭和35年1月にはブリル27-MCB-2に取り換えている
車体形状はモハ601・602と酷似しており屋根高さのみわずかに高い程度である。

モハ600形(605)

阪神電鉄の702号の車体を譲り受け、南海電鉄から譲受した台車・電動機を使用して昭和35年1月に自社で改造整備を行った、台車は南海からブリル27-MCB-2を譲り受けたがこれをモハ603に渡しモハ603が履いていたブリル27-GE-1を使用した。
なお、この車輌は当時残っていたクハ801(片ボギー式の小型車・元ガソリンカー)を廃車するために投入されたものである。

クハ800形(803)

昭和30年7月片上鉄道から譲り受けナニワ工機でクハに改造されたもので総括制御化に伴い制御客車の投入がなされたわけである、前後に荷物台をもった特異なスタイル(地方のガソリンカーによく見られる)の車で元の生まれはガソリンカーであるが終戦後当社に譲り受けるまでの間付随客車として使用していたもののようである、ほとんど同形のクハ802(同じく片上鉄道から譲受したもの)は昭和41年10月サハ1821の投入後廃車された。

クハ800形(804)

旧モハ502(履歴はモハ501と同じ)を斜体振り替えしクハ化したもので本工事も昭和30年1月にナニワ工機で施工した。
モハ502時代の昭和30年の1月に総括制御器に交換したほか、同じく昭和27年12月には台車をブリル27-GE-1に交換しているなどモハ603と同様の改造経過をたどっておりさらに昭和33年2月にはブリル27-MCB-2に交換されている。
なお、クハ800形はいずれも片運転台で貴志側のみに運転台がありMc車と連結する場合は必ず貴志側につけられる。

サハ1821形(1821・1827)

ラッシュ時の混雑緩和を図るために昭和40年4月(1827)及び昭和41年8月(1821)にそれぞれ本線のクハ1821形を転線使用しているもので、当線の電動車はすべて65~75PSx2であるため、侍従27.5tのクハ1821形と組んでMcTc運転を行うには無理があるので、McTMc組成で使用するよう転線の際サハ化すると共にブレーキ方式及び電送も貴志川線用に改造されている。

貨車について

沿線の農作物を中心に雑貨類等のため早くから国鉄とのkも津連帯運輸を行い一時は2両の直通貨車を有していたが、最近は貨物輸送の衰退傾向により貨物取扱量も漸減し現在では直通貨物はなくわずかに国鉄からの迎車(飼料・肥料等)を貨客混合列車により運行させる程度である、したがって現有貨車は社線専用の無蓋車ト429の1両のみで主に保線関係の資材運用に使用されているのみである。

以上のように当線は最近にも昭和30年を境として車両内容ににも大きな変遷があったほか動力が蒸気からガソリンそして電気と変わったため在籍車両もこの間絶え間なく変遷が続き子供の頃活躍した「山東軽便」や「和鉄」時代の車両の面影は現在モハ201・202にわずかに残る程度になってしまった。
当線も沿線の平野が浅く開発も遅れているため従来そして今後とも採算的には多くを望めないのは残念だが地方小路線の多くがだんだんと消えゆく現在いつまでも健在で地方開発振興のために活躍を祈りたい。

鉄道ピクトリアル昭和43年1月号 知られざる南海の路線2 松尾昭二郎著(南海電鉄車輌部設計課)を参照

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