沢を渡って再び歩き始めると、登山道は植林の中を緩やかに登ってゆく。
歩き始めて間もなく、右にそば道(作業道)らしき踏み跡を見つけるが迷わず真っ直ぐに進んでゆく。


登山道にはガレ石が多く歩きづらい。


沢からおよそ5分で小さな谷と出会う。
谷の両岸はザレ場で、木の根や枝を引き寄せながら慎重に歩を進める。
かつてこんなザレ場を、アメゴ釣りで沢登りしていた頃には半ば無謀ともいえる渡り方で(しかもフェルト底のウェダーで)、越えていたかと思うと今更ながらに身の細る想い出である。

谷を越え、相変わらず植林の多い中を登って行くが、所々にはシロモジやミツマタが黄色い花を咲かせて私たちを和ませてくれる。

上の登山口から35分、下の登山口から歩き始めておよそ40分、標高約880mで、尾根の一角に出て登山道は重要な分岐点にさしかかる。
ここは非常に重要な分岐点で、「登山道」の看板が下がっている「下る方の道(左手)」を選ばなければならない。もしも間違って右手に登ってしまうと大崩壊地に突き当たってしまうと思われるので(読図による判断で、実際に踏破した訳ではないが)十分に注意して欲しい。


尾根で出会う分岐。杉村さんの右足元に見える小さな立木に指導標やテープで目印がある。また、右手には細い丸木棒が登山道に横たわり「進入禁止」の役目をしているようだが少し分かりづらい。

指導標通りに左へとって下ると細い谷を越え、植林の中を進んで行く。

若干のスズタケを漕いで小さな崩壊地を横切り、尾根の分岐から10分ほどで、最後の水場となる小谷(乾燥期の渇水に注意)を渡る。
谷を渡ると右頭上には驚くほど巨大な岩(岩塊というより山と呼ぶのがふさわしい)がオーバーハングしてそそり立っている。これだけの岩なら地図に表記があってもおかしくはないのだが、地図にそれらしき印は無い。


巨大な岩が登山道にのしかかっている。

岩上に咲くアセビの花や岩肌に張り付く様々な植物を眺めながら、巨大な岩の縁を直登する。登るほどに岩の全容が明らかになり、その巨大さにますます驚かされる。
足元にはシカの糞が落ちている。きっとシカたちはこの岩上から四方を眺め自分たちのテリトリーを確認していることだろう。

岩に沿って標高差約50mほどを一気に登りきると道は尾根の一角に出て緩やかになる。ここで、適当に右の斜面を駆け上がり、イバラと格闘しながら岩の上に登ってみる。痩せた尾根のような岩の上には、コメツガやアセビの他ツツジなども豊富で、豊かな植生のおかげでさほど恐怖感はないが、滑落には充分注意して少し下ると東方面の展望が目に飛び込んでくる。そこには、ひと頃ダム建設問題で揺れに揺れた木頭村を手前に、那賀川流域の豊かな自然が広がっている。ダムについては様々な考え方があるだろうが、足元の自然と生きて行く私たちは、できることならこうした自然を活かしてゆく方法を絶えず考えてゆかなければならないのかもしれない。那賀川に注ぎ込むように折り重なる山並みと、左手対岸に白く見える崩壊地が私にそんな思いを抱かせる。


巨大な岩の上から那賀川沿いの峰々(東方向)を眺める。中央下に見えるのは木頭村北川の集落。

さて、岩の上から登山道に引き返し、植林の中を3分ほどで右手に登る道と出会う。
この分岐では、よく見ると右に赤テープが見つかるので、その通りに植林を縫って登って行く。
その足元には、石立山の続きの山肌らしく白い石灰岩のかけらが目立つ。所々にある赤いテープを頼りにジグザグに真上を目指す。

やがて、明確な横道に這い出ると、ここを左へと緩やかに登れば3分ほどで四ツ足峠である。
なお、この横道へと出た場所は、帰途に「注意を要する個所」で、うっかりここを見過ごしてしまうと大崩壊地で立ち往生してしまうので充分注意して欲しい。

石立山と行者山を結ぶ稜線上にある四ツ足峠は十字路になっており、左は行者山へ、真っ直ぐ下ると別府(高知県側)へ、そして右に行くと四つ足堂がある。標高は約1017m。ここまで上の登山口から約1時間10分である。
四ツ足峠は、かつては比志利賀峠(ひじりがとうげ)とも呼ばれていたようで、その頃には多くの旅人が往来していたことであろう。しかし、四ツ足峠トンネルのできた今、この峠を訪れる人たるや僅かで、まして別府から日和田に越す(あるいはその逆)などという人は滅多にはいないであろう。初めてこの峠に立つ私に往時の面影などは偲ぶ由もないが、しかし、何とはなく雰囲気のある峠である。


四ツ足峠の十字路に立つ。写真左に進むと行者山へ、向こうに下って行くと別府側へ、右に行けば四ツ足堂である。

ここでは、ザックを下ろし休憩がてら四つ足堂へと向かう。
十字路から2分足らずで、スギやモミの大木に守られた四つ足堂に着く。手前には「奉水、昭和19年6月吉日」の銘が彫られた、舟形の手水石がある。

四ツ足堂はかつて、お堂のあった「傍爾山(ぼうじやま/あるいは傍士峰、傍二峯)」の山名から「傍爾堂(あるいは方至堂)」とも呼ばれていたようで、その創建は寛永14年(1637年)頃といわれるが、山崎清憲著「土佐の道−その歴史を歩く」によれば「長宗我部地検帳」をひもときその創建を天正16年(1588年)以前と推察されているようである。いずれにしても古い地蔵堂であったことは、各種文献から紛れもない事実のようである。
なお、現在の「四ツ足堂」という名は、かつてこのお堂が四隅に四本の長い床柱を有していた姿からつけられたもので、高知と徳島の県境にそれぞれ2本の「足」が立っていたといわれる。


そんな四ツ足堂の前に立ち、静かに脱帽して、二礼二拍手一礼し祠を開けさせていただいた。
が、扉を開けるなり、いたるところにびっしりと書き込まれた落書きに唖然となる。
余計なことかも知れないが、「とってくるのは写真だけ、残してくるのは足あとだけ」にしてほしいものである。

ところで、祠の中には平たい石板が祀られており、石板にはうっすらと地蔵の姿が確認できる。
この時にはこの地蔵は人の手により彫られたものだと思っていたのだが、帰路に日和田の民家で由来を尋ねると、その昔、木こり(あるいは木地師や修験者かも知れない?)が、この石板で斧を研いでいた時に自然に浮き上がってきたものだという、古き良き時代のいわれがあった。


鎮守の森に立つ四ツ足堂。右手前には舟形の手水石が見える。

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