今ノ山  2003年11月

道が怪しくなって谷を遡上する頃、彼女の愚痴が始まった。
歩き始めてから引き返すのにまだ遅い訳でもなかったが、こちらが"正規"の登山道であることに疑いはなかった。
それに、立派な車道を歩くコースには、厳めしく頑丈なゲートがあった訳だし、もう少しすれば、その車道を横切って明確な登山道が現れる確信があった。
だから再び山道が現れると、鬼の首でも取ったかのように胸を張ってみせたが、その道も石垣が崩れたり、道が寸断されていたりで、立派な遊歩道が現れるまで、気が気ではなかった。

高知県の南端でひときわ高く聳える今ノ山には、航空路監視レーダー(*1)などいくつもの重要な施設があって、その入り口には施錠されたゲートがある。
人一人ならゲートの脇をすり抜けて管理道を歩いてから途中で山道に入るのがよく使われている"内緒のコース"のようだが、私はそうはしなかった。その管理道入口から少し下手にある「今ノ山風景林」の案内板のそばから昔ながらの道を歩き始めたのである。
なにもそこまで堅苦しいことをしなくてもよいようなものだが、車道を歩くよりは山道を歩いてみたかったからである。

(*1)国土交通省大阪航空局土佐清水航空路監視レーダー事務所(昭和58年(1983年)設置)の施設で、四国に唯一の航空路監視レーダー基地である。

 
左が今ノ山登山口。右はゲートのある管理道入り口。

案内板の横から谷に降りると、対岸に渡り、水量豊かな谷に沿ってスギ植林の中の山道を歩く。
少し歩くと道は谷の中に消えてしまうが、谷の左岸を遡上し、まもなく右岸に渡ると、植林の中に再び道が現れた。
右手に谷音を聞きながら植林の中を行くと、谷を挟んで対岸には管理道の白いガードレールが見えている。
そのガードレールを恨めしそうに見上げる彼女がまた愚痴を言いそうになるのを遮るようにして、わざと大きな声で山道を歩く楽しさを語って見せたが、彼女の機嫌は相変わらずだった。
しかし、谷沿いの山道はそれほどの悪路でもない。ところどころ、掘れた溝や谷を横切るところはあるけれど、両手を広げて歩けるなだらかな広い道である。今では少し荒れ気味だが、そこには丁寧に石垣が積まれ、かつてはよく整備されていた名残も認められる。


かつての石垣も今は崩れ落ちて、荒れた山道をゆく。

やがて、正面に管理道の赤い橋が見えてくると、登山道はその橋の下をくぐり、車道脇の登山道と合流する。
目の前には「登山道」と書かれた道標が見える。ここからよく踏まれた遊歩道である。

最前から辿ってきた谷川に沿って、更に右岸をなだらかに行くと、辺りは照葉樹林に包まれる。林の中にはあちらこちらに樹名板が見える。ヒメシャラやヨグソミネバリ、エゴノキなど。ウラジロガシの大木もある。


ウラジロガシの大木に見守られながら快適な遊歩道を歩く。

谷の支流である小さな沢を横切ると、その沢に沿って左岸を登る。立派なアカメガシワの木が立ち、足元にはみずみずしいスギゴケが生えている。
シキビやリョウブ、アオガシ、タンナサワフタギも見える。なかでも白い花は南西部にだけ自生するサザンカだろうか。
木漏れ日を受けて葉の裏が白く輝くウラジロガシの落ち葉などを踏みながら進むと、彼女の足取りが軽くなったのが分かる。
半信半疑だった彼女も、やがて大好きなヒメシャラの木が林立する辺りに来るとすこぶる機嫌が良くなった。
これで当分大丈夫だろう。


十数本のヒメシャラが林立する沢沿いの登山道。

林の中にはオンツツジ、カナクギノキ、アカシデ、ミズキ、シラキ、ヤブツバキなどいたるところにたくさんの樹名板が下げられている。足もとにはツルシキミの真っ赤な実も美しい。
谷の流れが次第に細くなると、徐々に傾斜が増して、だんだん息が上がってくる。
やがて前方に、「登山道」と書かれた道標が見えてくると、一本のヒメシャラを巻いて右に折り返し、谷を離れる。
アカガシの大木が散在する山肌をゆったり標高を稼いでゆけばまもなく尾根に出て、最初の休憩をとった。
ひと息ついて周りを見渡すと、アカガシ、モミ、ツガ、ハイノキ、アセビやソヨゴなど、雰囲気の良い林が広がっている。

短い休憩を終えて腰を上げると、登山道はほぼ尾根に沿ってつづら折れに登る。
右に左に折り返しながら、思ったよりきつい坂が続く。今日は北風が強いが、それでも林の中ではそよそよと、熱くなった身体にはちょうど心地よいくらいに吹いてくれる。


谷を離れてアカガシの林を尾根に向かう。

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