さて、いよいよ妹背山登山の当日である。約束の早朝6時に心づくしの朝食をいただき、ザックを背に6時半過ぎ、宿をあとにした。
青い熱帯魚の遊ぶ入り江の奥へと進み、テナガエビのたわむれる小谷を眺めながら、石垣が独特な母島の集落へと入って行く。
一枚岩の石の階段を登り、右手上方の車道を目指す。前方には電信柱が見えている。
電柱といえば、沖の島は昭和3年に水力発電によりはじめて電灯がともり、現在は土佐清水市柏島から海底ケーブルで電力が供給されている。高知市に石炭火力で初めて電灯がともったのが明治31年のことだから、それよりも30年も後のことである。
母島集落の石段を登って行く。右手上方で石垣から突き出ている細長い石は「干棚(ひだな)」とよばれ、ここに竹などを敷いて、イモや海産物を天日に干す棚として利用される。
石段を登って行くと対岸の集落にも特徴的な石垣が広がる。石垣に囲まれて急な山肌に立つ家々は、厳しい島の暮らしに身を寄せ合いながら生きてきた人々を象徴するかのように、褐色の屋根が肩を寄せ合うように建っている。家々の間には狭い段々畑でサトイモやサツマイモ、落花生やダイコンなどが細々と栽培されている。
黄土色の石垣が母島の集落を特徴づけている。
旅館を出て10分足らずで一車線の細い車道に出る。
振り返ると母島の漁港が穏やかな朝を迎えている。
車道から見下ろす母島港。左奥に浮かぶ島は姫島(ひめじま)。
さて、車道は約3分で終点となる。
ここからはアスファルト舗装の小道を進む。
耕作放棄された狭い畑のそばを通り、メダケの茂る林を抜け、2万5千分の1の地図に記された破線を辿ると、旅館から約20分で上方を走る車道に出る。
2車線の広い車道を左へと進むと、すぐに分岐があり、ここは右手に登って行くと母島小中学校で、その裏手に登山口の道標はある。
母島小中学校の校門をくぐると真っ直ぐに校舎の裏に向かう。立派な白い校舎と広いグラウンドは、今でこそ全校生徒6名の小規模校なのだが、かつてはにぎやかな声で埋め尽くされていたことだろう。
*学校の中を通らないで登山口に向かうには、車道を真っ直ぐに、すぐに出会う三叉路を右に、そして校舎の裏手へと上がれば登山口である。
*校舎の裏には登山口の指標が二箇所あるが、校舎の隅にある登山口(下の写真)から登り始める。
母島小中学校の裏手にある登山口。指標には「妹背山、ここから約60分」と記されている。
登山口から薄暗い小道に踏み込み、シダが茂りマツが生える登山道を進む。
やがて照葉樹の茂る横道を南南西に緩やかに登り、登山口から約10分で尾根の手前を横に、照葉樹林のアーチをくぐりながら尾根の左手を進んで行く。登山道は比較的しっかりとしており、それほど迷うことなく私たちを山頂まで導いてくれる。ただ、登山口から上方に約200m、左手の岩の上から望む眺望以外に、山頂まで展望はきかない。
登山口からヤブツバキやタブの木などの薄暗い山道を約23分、登山道は突然「林道」に出る。よく見ると対岸に指標がある。
地道(未舗装)の林道を横切って再び細い山道を約4分ほど登ると、またも先ほどの延長であろう林道に出る。ここからは左へと林道を歩いて行く。
林道をおよそ3分ほど進み、道の脇に石垣が認められる頃、右手に赤いテープのある山道へと踏み込んで行く。
登山道の下方には湿った土の上にイノシシのヌタ場が、また登山道の所々にはイノシシが食料としてクズなどの根を掘った後が認められる。
かつて沖の島はシカの被害に悩まされ、天保13年(1842年)には鹿垣を築いたという記録が残っている。
一方、イノシシは近年までまったく生息していなかったのが、数年前から海を渡ってきて繁殖を繰り返し、現在その被害は深刻だと聞く。
弘瀬の集落で、イノシシ対策用のネットを補修中の島民は、「イノシシは夕方になると民家の路地にまで出没し、イモなどの農作物を頻繁に荒らしてゆく」と、嘆息していた。畑の周りに張り巡らされたネット(網)やトタンも結局はイタチゴッコだという。
それにしても、イノシシが海を泳いで渡ってくるとは驚かされる。彼らは沖の島のみならず鵜来島にも渡って来るという。
ちなみに海を渡るイノシシの姿は今も時々、定期船の乗組員が目撃するという。
照葉樹林の中の登山道(林道から山道に入って間もなくの辺り)。
さて、林道から分かれて登山道を真っ直ぐに進み、やがて道なりに大きく右折してやや下ると、登山道の脇に一軒の廃屋が見えてくる。この廃屋の上手を進むとすぐに「山伏神社」への分岐となる。
山伏神社への分岐を左手に登って行くのが妹背山への登山道だが、ここでは右に1分ほど下り「山伏神社(やまぶしじんじゃ)」に向かう。
山伏神社のある一帯は「北峯山(きたみねやま)」とよばれ、神社の境内には巨大な「スダジイ」の古木が立っている。