さて、往還の横道に出会ってからは指導標どおりに地蔵山山頂に向かうが、植林の中のしかも急斜面をトラバースする歩道は危険なザレ場が多く一時も気が抜けない。
慎重に歩を進め、10分あまり来て前方がやや明るくなると、第4の分岐である、十和村と大正町との町村界尾根に出る。
ここには丸太の腰掛けが用意されていて、急登で流した汗を拭いひと息つくには好都合である。


大正町と十和村の境界である尾根に立つ。

さて、ここから右に尾根を辿れば笹平山(ささひらやま)で、左に行けば地蔵山である。
まずは左にとって地蔵山をめざす。

アカマツやアセビ、ヒメシャラなどが目立つ林の中を登って行く。
と、突然一匹のマムシが登山道を横切った。
一匹見たら近くには七匹はいるともいわれるマムシだけに全員に緊張が走る。
案の定、この付近で行き帰りに都合四匹のマムシと出会った。いわゆるハメのクラ(ハメグラ)に出くわしたのである。
なお、マムシは笹平山に向かう尾根道でも見かけているので、マムシが攻撃的になる産卵時期などは注意が必要である。


夏の陽射しを遮る林の下、スズタケの中を登る。

さて、町村界尾根に出てから30分あまり登ってくると、三町村(十和村、大正町、日吉村)の境界が交わる辺りに来て、ぽっかりと南の展望が開け、杉の木の元には舟形地蔵を見つけた。
この地蔵が土佐地蔵と呼ばれるもので、年代を感じる右手の地蔵には「享保十三年申年八月廿(?あるいは吉)日」の文字が、また左手の愛嬌あるお地蔵さんには「鎮地蔵、大正十五年九月吉日、向畑、門脇源三」の文字が見て取れる。(「向畑」は仁井田又の奥にある集落で、笹平山の南に位置している。)
ここで、古い方の地蔵が建てられた享保13年からおよそ70年後の享和元年に成立した「西郷浦山分廻見日記」では、「地蔵森(地蔵山)には大道村の者が建てた地蔵堂があり、祭日には伊予からも参拝した」との記述が見えるので、縁日にはずいぶん賑わっていただろうことが窺い知れる。
ところが、地蔵山の山頂には伊予地蔵もあって、実は伊予から参拝したのは伊予地蔵の方ではなかったかとも思える。
双方の国許からそれぞれの地蔵に会うためにこの山に登っていたことは、後ほど述べるこの地蔵のいわれからくる信心の深さなのであろう。


傍らの土佐地蔵を覗き込む。

なお、地蔵の近くには「土佐地蔵標高1128米」の標柱が立ち、足元には「山、正20」と刻まれた標石がある。
ここからは北東方向に鳥形山や天狗高原など、見事な眺望が広がり、目線のやや下には後ほど辿る笹平山の尾根筋も見えている。
ここが地蔵山登山道中、唯一の展望である。


土佐地蔵のそばから南に土佐のやまなみを眺める。左手前のピークが笹平山。

美しいやまなみと青い空に浮かぶ夏雲を眺めた後、土佐に向かって立つ2体のお地蔵さんにお供えものをしてから手を合わせて、再びザックを背負った。
ここまで来れば伊予地蔵の立つ地蔵山は目と鼻の先である。

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