土佐地蔵からは道端に形のよいブナを眺めたり、足もとにはアキチョウジの群落をめでながら、季節が秋なら紅葉の楽しみな雑木林を歩いて行く。
広々とした県境の稜線をなだらかに5分ほどで伊予地蔵の立つ地蔵山山頂に辿り着く。


土予県境の稜線を西へと地蔵山山頂に向かう。

地蔵山の山頂は土予県境の開けた稜線上にあり、ここには通称伊予地蔵と呼ばれる地蔵が、こちらは伊予の国に向かって立っている。
いかにも歴史を感じさせるように苔生した大小2体の地蔵のうち、大きい方の一体からは「豫州吉田藩領、寛?九月、願主」の文字がかろうじて読みとれる。(年間については吉田藩の時代ということ、先述した「西郷浦山分廻見日記」などから「寛保、寛延、寛政」などが考えられる)

ところで、山頂には「平成9年度父野川上分館、地蔵山歩道整備事業記念碑」や、山界標石もある。
山頂一帯は展望こそ皆無に等しいが、不思議に心地よい雰囲気に包まれている。
かつてこの場所では旧暦4月24日の縁日に奉納相撲が行われ近郷の人々で賑わったといわれる。

 
地蔵山山頂では苔生した伊予地蔵が静かに私達を待っていた。

地蔵山で土佐と伊予を向いて立つ土佐地蔵と伊予地蔵は、その昔、土佐から押し寄せた津波をここで堰き止めたといわれる。

土佐の四大地震
(*2)といわれるうち、記録に現れた最初の大地震である684年の「白鳳の大地震」では、土佐に栄えた黒田郡が一瞬にして海に沈んだという伝説がある。
この類では、地蔵山の南方20Kmに位置する中村市片魚地区が、白鳳の地震による津波によって魚が打ちあげられたのが地名の始まりともいわれており、あるいは、香美郡土佐山田町にある後入山山頂の南斜面(標高690m)には、白鳳の大地震で津波が打ち寄せたため船を繋いだという「つなつけの石」が口碑されている。
史実は別にしても、余ほど巨大な地震だったことは紛れもない事実のようで、そのことが後々人々の口をして魚を木に登らせたのであろう。それは後世の私達に怠りなく備えよと教えているものなのかも知れない。
近い将来土佐沖を震源とする大規模な地震が起こるといわれている。
その時にも、土佐地蔵と伊予地蔵は再び偉大な力を私達に見せてくれることを願わずにはいられない。

(*2)土佐の四大地震=白鳳(684年)、慶長(1605年)、宝永(1707年)、安政(1854年)、これに戦後の南海大地震を加えると五大地震ともいう。

さて、話が少し逸れてしまったが、、、
地蔵山の山頂を後にした私たちは、もう一つの目的地である笹平山に向かい、一挙に町村界尾根の分岐(第4の分岐)まで引き返した。
地蔵山からこの第4の分岐までは20分あまり、もし、地蔵山だけにして引き返すならここから登山口までは40分あまりだが、私達は今度はここから南西に向かって笹平山へのピストンに出かけるのである。

笹平山に向かうには、まずは目の前に立ちはだかる植林の壁をよじ登る。
町村界尾根を忠実に辿る道はスズタケが鬱陶しいので、やや右手に逸れながら道無きヒノキの植林を辛抱強く登って行く。
この植林の直登が笹平山登山の唯一の難所であり、ここを登りきればなだらかな稜線が待っている。


植林の中の急登。

息を切らして15分ほどで、ようやくピークに立つ。ここには「境653」と刻まれた標石が立っている。
ここからは町村界の尾根をなだらかに、マツ、アセビ、ヒメシャラなどの林を歩く。
尾根の途中には見事なアセビの群落があり、花時が楽しみである。


ササに覆われた尾根道を行く。