笠木山 2004年12月
土佐漆喰の白壁と水切り瓦が美しい吉良川の町並み、その奥に笠木山は肩を覗かせている。
切妻造りの町家やいしぐろの向こうで、まるで手招きするかのように、この町のシンボルは私を頂きに誘う。
以前は、誘われるがまま「脇の内」から登り、つまらない植林と壁のような急登に辛酸を嘗めたものである。
それだけにあの日「暴れ馬」のようだった笠木山が今日はどんな姿を見せてくれるのか、二度目の私には興味津々だった。
古式ゆかしくも哀愁漂う御田祭り(おんだまつり)が奉納される御田八幡宮の裏手には、この山の名を冠する運動公園がある。
町並みを見下ろす展望台や、防空監視哨跡の石碑などを抱える「笠木山運動公園」のその先に、登山口はある。付近には四国電力やNTTのアンテナ塔が建っている。ここまでなら国道から歩いても半時間とかからない。が、私たちは毎度ながらラットのように小さなマイカーを酷使してしまった。
吉良川の町並みから笠木山を遠望する。
公園から足慣らしもそこそこに山道に入るが、なだらかに行く里山は私のような者にさえ優しい。背後に太平洋の波音を聞きながら、よく踏まれた雑木林に入る。
舌を出したやんちゃ坊主のようなツリガネニンジンを見ながら、里の営みを補完する果樹園や野菜畑を抜けて、頭上に送電線を認めると小さな作業道に出た。そばには四国電力の送電鉄塔が立っている。作業道はこの先の広い芋畑で終わっているが、許可さえもらえればここまで車を乗り入れることもできよう。しかし、山道で車道に出会う度に「しまった」と思っていたのは以前のことで、最近ではそれを知らなくて歩けたことの方に「八割方」感謝している。
里山道をゆく。この道は鉄塔巡視路でもある。
さておき、今日はとても見晴らしがよい。
振り返ると太平洋は水平線までもくっきりと見えている。目を凝らせば足摺岬まで、鯨の泳ぐおらが池「土佐湾」が一望にある。
そして突き抜けるようにどこまでも高い空のもと、芋畑に向かう作業道を歩いて行くと、収穫の終わった畑の畦ではススキが金色の穂を揺らせている。ススキの向こうにはめざす頂が見えているが、まだ遙かに遠い。
広い芋畑を通る作業道からは、左奥に山頂が見える。
広い芋畑の中を通り抜けると、イノシシ除けの柵を越えて植林の中に踏み込む。
忘れられた石垣や耕作跡などを見ながら、植林の中の明確な山道を辿ると、まもなく小さな峠に下り立つ。
東ノ川と西ノ川を結ぶ往還が登山道を十字に横切っている。峠には、そっと置かれた石仏があった。そこには蓮華を挿した細長い水瓶(すいびょう)を持つ十一面観音と、八十六番の文字が刻まれていた。それは四国霊場「補陀落山志度寺」の本尊であり、村四国の石仏だった。
峠にひっそりと村四国の石仏がある。
北村の集落からさかのぼり、笠木山(願文に拠れば「笠置山」)の山腹に散りばめられた「吉良川八十八ケ所」は、大正十年に慶林山松寿禅寺(臨済宗松寿寺)の住職だった覚行和尚がひらいたといわれる。里にはその縁起を記した記念碑があり、その願文は、困難な巡礼を新四国の開設によって等しく広く伝教しようとする気概に溢れている。
年に二度の大祭にはいの町や徳島県など遠方からも多くの人々が訪れるという。
ここからはそんな村四国を逆に辿りながらしばらく巡礼の旅に浸ってみる。
峠を後に、坂を登ると吉良川中学校や西ノ川を跨ぐ吉良川大橋が見えてきて、次第に傾斜が増してゆく。
八十五番の石仏は坂の途中に現れた。辿る遍路道はいたって明確だった。その左右やあるいは離れに札所は配されている。
石仏はおおかた涎(よだれ)掛けを纏っているので像容は拝見しがたいが、たとえば八十四番と八十二番と八十番は同じ千手観音でも像容に違いがあったりして楽しい。個人的には八十二番が好きである。
しかし、そうして石仏を訪ね歩けば、いつもの悪い癖で一向に山頂は近づかない。今日の同行者は若いI君でもあり、たびたび置き去りにされそうになる。
だから、大正時代にひらかれた村四国の石仏のひとつに明治の年号が刻まれていた謎も置き去りにしてしまった。
札所の石仏を巡りながらの巡礼が続く。