ところで、吉良川の村四国は麓の北村に建つ送電鉄塔(室戸線69番)のたもとから案内板に導かれて巡礼が始まると思われている。
ところが、それだと一番が見当たらないまま急坂の巡礼が始まるのである。それは打ち納めも同様で、前述の峠にある八十六番から谷沿いを下ると、岩上に配された八十七番を最後に、麓に下りても一向に八十八番は見当たらないのである。
実は、始めと終わりのふたつの石仏は、参道から少し南にある臨済宗松寿寺に安置されている。吉良川八十八ケ所ゆかりの覚行和尚が巡礼姿で立つ脇を固めるようにふたつの石仏は配されているのである。
麓の松寿寺にて。覚行和尚の両脇に1番と88番の石仏がある。
さて、山頂に向かう登山道はこのまま五十一番まで逆打ちで石仏を巡る。
山中のこととて、ところどころイノシシの巡礼で荒らされた山道を歩くと、六十八番で西山台地を振り返りつつ、I君の背中を追いかけながら雑木林を駆ける。
やがて小さな十字路を右にとって尾根に出ると、五十四番の石仏からは東ノ川に向けて鋭く切れ落ちる断崖の縁を辿る。足もすくみそうな凄まじい高度感で点在する集落を見下ろしながら尾根を辿る。
尾根の右手は東ノ川に切れ落ちる絶壁。
参道に「中間地点2340m」の看板が現れると、支尾根を東から西に乗り換え、登山道で出会う最後の五十一番を通過する。
その石仏の先で参道は左に山肌を下り、登山道はそのまま尾根を辿るが、時間があれば、岩陰にある五十二番の趣にふれるのも楽しい。
笠木山へは直進し尾根沿いに登ってゆく。
胸を躍らされた石仏たちとも別れ、山道は殺伐とした植林に入る。正面にはだかるピークの手前には雑草の生い茂る伐採地が待っている。
その縁から眺望は開けるが、沖をゆく船や岬は逆光に黒いシルエットだけが浮かんでいる。
ところで、伐採地に踏み込むと、とたんにいくつもの踏み跡に惑わされる。踏み跡を外せば繁茂するイバラやシダなどに足もとをすくわれる。
参道と別れ頼りない踏み跡を辿ると、前方に伐採地が近づく。
さぁて、弱ったなと呟きながらも、この程度のことは良くあることである。
辺りを探ると、炭窯跡をかすめてピークの左手を巻く山道を見つけた。
確かな踏み跡は、しかし、すぐにブッシュに遮られていた。立ち往生して一旦引き返した私たちだったが、もう一度辺りを探り、ここしかないと当たりをつけたら遮るブッシュの巻き道を探った。
よくみると、左下にそれとはなく迂回路がある。それですぐに向こうに出てみると、なんとはいうこともなかった。
それより、問題はその先だった。
右回りに山肌をトラバースすると、やがて小さな鞍部で一面の植林になるが、そこで、踏み跡は消えた。
伐採後の2次林を越えてのぞく崎山台地などの眺望。
植林には下生えも無い。剥き出しの裸地は、四方八方どこにでも歩いて行ける植林の中の迷路だった。
山中には尾根を辿る赤いテープや闇雲に直登するサインテープなども見える。しかし、明らかに「道」はそれらではなかった。
今までの山行きの「感」を総動員させて「経験」が選び出したのは、一本の「見えない道」だった。
踏み跡もコースサインも無い「道」は東に向かい、植林を抜けると尾根で予想通りに明確な山道へとつながっていた。
ひと安心すると、やや早足に照葉樹の林をトラバースする。
やがて林の向こうに大規模な伐採地が見えてきた。山頂に続く尾根の東山腹は麓まですっかり伐採されている。それはウバメガシなど木炭原料の伐採だった。そういえば吉良川は土佐備長炭発祥の地にして、紀州と並び良質な木炭の産地である。笠木山の育む自然が吉良川の人々を培う側面をここに見た。
大規模な伐採地の手前から山頂(中央奥)を眺める。