香山寺 2003年4月
*2004年3月5日加筆訂正
山での忘れ物は度々ある。
そそっかしく落ち着きの無い私はしょっちゅうのことで、西又山ではカメラに夢中になりステッキを道中に置き忘れ、三榜示山では新品のチタン製マグカップを忘れてきたことがある。つい最近では竜頭山の登山口にまたまたステッキを忘れてきてしまった。
そして、この香山寺でもちょっとした忘れ物をしてしまったのである。
香山寺は中村市の中心地にある里山で、山頂は「市民の森」として公園化しており、マイカーで山頂まで至ることができるが、麓からかつての参道を歩いてみるのもおもしろい。
登山口は中村市坂本の集落にあり、国道321号線と別れて中筋川に架かる坂本橋を渡り、突き当たりを左にとってすぐに今度は右折すると坂本の集落である。
登山口までは道標が整備されて迷うこともないが、集落には適当な駐車場所がないので、登山口の少し奥にある皇子神社の境内を借りてマイカーを駐車する。
坂本集落の登山口。かたわらに道標が立っている。
民家の脇にある「香山寺市民の森登山道口」の指導標に従い、山道を歩き始める。
と、ちょうど民家の裏山にさしかかった頃、足もとからコジュケイが一羽飛び出した。こんな市街地でも生活する鳥たちにちょっと嬉しくなった。
卯の花が咲く山道を登って、間もなくモウソウチクと植林の中を行くと、登山口から5分ほどで道の左脇に石の道標が現れる。
それには七丁と刻まれてあり、一丁(町)は60間なので、ここから山頂の香山寺までは763mほどあることになる。ちなみに麓からだと香山寺までは八丁(約873m)の道程だといわれてる。
石柱の傍らには手を合わせて寄り添う双仏石もふたつ据えられてある。しかし、一般に知られる阿弥陀と地蔵による双仏石ほど二尊に特徴の差異は認められない。多分に双体道祖神的な要素が強いように思われる。
路傍には「七丁」と刻まれた石柱や、双仏石がある。
石段状の道を上に向かうと、コジイの高木のもとを過ぎて分岐になるが、右手の道は見送って真っ直ぐに登って行く。
山道はすぐに陽の射さない林になり、右手には水田や耕作放棄されて植林に変わった棚田が見える。
道の両脇に石垣を見ながら、登山道は次第に急坂になってゆき、照葉樹の木の根がゴツゴツとして道に張り出している辺りで傍らに「山頂まで500m」の看板が見えてくる。
植林の中の石段を登って行くと、道の左から吹いてくる海風が額の汗に心地よい。
広々としたかつての参道は植林と照葉樹林帯とを繰り返しながら、まもなく「山頂まで400m」の看板になる。
照葉樹の林を登って行く、右手に「山頂まで400m」と書かれた指導標が見える。
落ち葉踏む快適な山道にはツツジの花が咲き、やがて右手に見えてきた石仏を過ぎると十字路を横切り、正面に見える石段に向かう。
石段の始まりには「山頂まで350m」の看板が立っている。
歴史を感じさせる石段を一歩一歩丁寧に登って行くと、「山頂まで300m」の看板を過ぎて参道脇に巨石が散在する一帯にさしかかる。
正面には何やらいわれでもありそうな大岩があり、信仰の対象になりそうに思えるが、その証は得られなかった。
そんな大岩と登山道を挟んで斜め上には「坂中大権現」の祠があり、傍らには四丁と刻まれた石柱が立ち、素朴な彫りの地蔵菩薩も座っている。
ここまで登山口から15分ほど。
「四丁」と刻まれた石柱と、素朴な彫りの地蔵。
ここで一呼吸入れてから再び参道を登って行くと、すぐに「山頂まで250m」の看板が現れる。
その近くには寄進者の名前らしき文字が刻まれた自然石の大岩がある。これが香山寺の岩碑とも磨崖仏ともいわれる大岩であろうか、しかし風化がひどく今では文字とも線刻とも判断はつかない。
それでもかつての判読によれば、金石文(*1)は「元享二年正月十一日藤原國次」と刻まれてあるという。
元享二年(1322年)といえば今から700年ほども遠い昔。年号の刻まれた金石文では県内最古のクラスに入るのではないだろうか。
ちなみに香山寺に関係の深い前関白一条教房(いちじょうのりふさ)が中村市に下向するのが150年も後の応仁二年(1468年)のことである。また、結願者の藤原姓と言えば国司藤原公明ゆかりの人ででもあっただろうか。
いずれにしても、鎌倉時代から南北朝へと向かう動乱の時代に、いったい誰が、いったいどんな願いを込めて金石文を刻んだのであろうか、想像は尽きない。
(*1)金石文とは石碑や金属や木版など、紙以外のものに刻まれた文字や文章や銘文の総称をいう。文字が陰刻されたものは「款」、陽刻されたものを「識」と呼び、香山寺のものは「款」である。
登山道の脇にある大岩(岩碑)にはうっすらと文字が刻まれている。
岩碑と別れて山頂に向かうと、参道の脇には束になってギンリョウソウが生えている。落ち葉色一色に透き通るような白はよく目立つ。
まもなく登山道はなだらかになり、「山頂まで150m」の看板が現れる。
この先でも路傍に佇ずむ石仏に挨拶を欠かさず行けば、いよいよ「一丁」の石仏が現れる。
この石仏には「田野川岩田村庄屋、橋本慶左衛門、寛政十一已未正月十八日」の文字が見て取れる。
ちなみに、寛政十一年は西暦1799年にあたり、田野川岩田村(田野川村、岩田村)とは後の後川村の一部であり、現在の中村市岩田、田野川地区などにあたる。
享和元年(1801年)の「西郡廻見日記」に登場する田野川村と岩田村の庄屋とはこの石柱に刻まれてある「橋本慶左衛門」、まさしくこの人であったのではないだろうか。
ツバキが花を散らした石段を行く。右は一丁と刻まれた石柱。