国見山〜明神岳 2003年4月
林道に泣かされた一日だった。
情報の無い林道を歩くべきでないのは頭では分かっていたのだが、忘れることのできない想い出を作ってしまった。
久しぶりに国見山に登るなら参勤交代道を歩いてみたい。そして国見山に登ったなら、東にある三郷越えの地蔵にも会ってみたいし、どうせなら尾根を伝って明神岳までも行ってみたい。
こんな欲張りな計画は、しかし、回送縦走なら片道およそ12キロ、予想所要時間8時間で消化できるはずだった。迷走さえしなければ、、、。
天気は下り坂だったがたいした崩れはないだろうとふんで、杉村さんと予定通りに待ち合わせ、それぞれの車で一路国道32号線を北に向かった。
まずは大豊町馬瀬から下山口である明神岳に向かい、登山口の手前の広場に一台を乗り捨てると、来た道を引き返し穴内川の上流をめざす。土佐山田町繁藤から県道268号線(蟹越繁藤線)に入り、穴内川ダムの堰堤を左手にしばらく蛇行を繰り返すと、青い欄干の「山目野橋」を渡る。
その「山目野橋」から600mほど西進すると、上部で参勤交代道と交わる電源開発の鉄塔巡視路があるが、今回の登山口はその巡視路入り口からさらに西に800mの所にある。そこには山手に折り返すような山道が上がっていて、現在入り口には立派な道標が立てられているが、当時は「参勤交代道」と赤書きされた小さな木札が立木に下げられているだけだった。
上穴内にある参勤交代道入り口から国見峠に向かって歩き始める。
ところで、この登山口の少し手前から作業道が山肌を上がっており、上方で登山道を寸断して最初から混乱を招くことになるのだが、それは後ほど述べる。なお、この作業道は私道なのでマイカーの乗り入れは厳禁である。
上空に重たい雲がたちこめる中、ともかくザックを背負い登山口から一歩を踏み出した。ここから国見峠まではおよそ5km。あわてても詮無いことである。
今日登る山道は「北山越え」と呼ばれる。この国見越えのほか、西にある中ノ川越えや北の猿田越えなど、北山を越える道を総じて通称「北山越え」と呼ぶが、中でもこの道は延暦15年(796年)に開かれた古代官道であった。
歴史ある官道もしかし、険阻な四国山地を貫く道は険しく、やがて歴史の表舞台から消え去るのだが、再びこの道が歴史的な脚光を浴びることになるのは、土佐藩六代藩主山内豊隆が享保3年(1718年)から海路に変えてこの道を「参勤交代道」として使ったことによる。
お城を出た大名行列は領石から釣瓶を経てコンニャク峠(権若峠)を越え、穴内川を渡り国見峠をめざしてこの道を登ったのである。
その道筋を辿り、登山口から山道を登り始めるとすぐに作業道に出る。この車道が先に述べた作業道だが、それにしてもいきなり味気ない寸断のされ方である。その真新しい作業道を数歩で再び山手の参勤交代道に入ると、まもなく山道にハードルのように横たわる大きな岩が現れた。
これは「篭すり石」と呼ばれ、大名行列の篭(かご)が底を擦った岩だといわれている。こういう岩はこれから辿る山道にところどころ現れるが、よく見るとこの岩には段差を解消するように盛り土が施され、岩の上面を削った跡が認められる。
「篭すり石」を越えてゆく。
ようやく往還の雰囲気が出てきて足取りも軽くなるが、やがて参勤交代道は照葉樹林の林を登り、古めかしい石垣を折り返すとまもなく、一面の伐採地に出て唖然とする。
見るも無惨に伐採された山肌は表現のしようもなく、縦横無尽に走る作業道は往還をことごとく寸断している。最初の誤算が早くも訪れて、結局ここで大幅なロスタイムを出してしまった。
参勤交代道を縦横無尽に寸断してしまった作業道。前方の湖は穴内川ダム湖。登山道は非常に分かりづらいが、こういう風に見下ろす地点へと向かう。
ここで私たちは二手に分かれて上をめざすことにしたのだが、一番最良のコースをここには紹介しておくことにする。ちなみに、そのコースは参勤交代道だったと思われる地図上の破線とは全く異なるので注意が必要である。
ともかく、伐採地に出たなら伐採地中央上部の尾根をめざす。
作業道の山手によく踏まれた明瞭な山道を見つけたら迷わず踏み込み尾根に取りつく。そうすると尾根の右手に小さなコブがあり、ひと登りすれば穴内川ダム湖や南のやまなみの展望が得られ、北を見上げれば向かうべき送電鉄塔が見える。(*1)
(*1)現在この伐採地にはいくつか指導標が設置されたが、中には抜けて倒れたものや指す方向に疑問のあるものなどがあるので注意が必要。特に本山町からこちらに片道越えをする場合は、往還への復帰点が分かり難いのでくれぐれも注意したい。
尾根に出てからは左に折れて、道なりに登れば、ところどころ展望の良さそうな伐採地を経て、やがて驚くほど大きな岩が登山道に現れる。
オーバーハングした大岩のもとには丸太のベンチもあるが、落石が不安でくつろぐ気にはなれない。
ところで、この大きな岩は「嫁ケ岩、姑ケ岩」と呼ばれ、昔、道中で嫁と姑が争いになり、嫁は泣きながら大岩に逃げ登ったが、怒った姑が追いかけてきたので持っていた傘を広げて飛び降りたところ、姑もその後を追って傘を広げ飛び降りようとしたが姑の傘は開かずに死んでしまったという曰くが伝えられている。
だいたいこういう説話では姑が悲惨な結末を遂げるものが多く、総じて家庭不和を戒めているのだが、相変わらず現代でも嫁と姑の関係は複雑なようである。
なお、「土佐州郡志」にある「婦之石」(*2)というのはこの大岩でないかといわれている。
(*2)穴内村の項に記載。路傍にある二大石は昔、本山村から穴内村に嫁いだ女が、夫に理解されず里に帰されたが、帰路に力尽きこの石に触れて死んだことから、こう伝わる、とある。現在伝わる説話とは異なるが、共に家庭不和を戒めるものである。
登山道に聳える「嫁ケ岩、姑ケ岩」。
山道は大岩の右手を巻いて、敷き詰められた石畳を踏みながら上方に向かう。
現在でも保存協議会により適時整備された道は、雨水で大きく掘れ込んだ箇所には木橋が渡され、階段も設えられている。
それにしても年月の積み重ねは凄まじいもので、少しずつ浸食されて窪まった山道は元の位置からして背丈を超えるほどに掘れ込んでいる。かつて参勤交代の行列は頭の上を歩いていたかと思うと不思議な感覚がする。
やがて山道は「宇127番」と刻まれた標石の辺りから傾斜が緩くなり、左手に広くなだらかな窪地が見えてくる。
この広場は「休場(やすば)」とよばれ、大名行列が駕籠を置いて休んだ所だといわれている。しかし残念ながら現在は薄暗い植林に覆われ偲ぶべき面影もなく、私たちには休む気さえ起こらなかった。
さて、道の脇に炭窯跡などを確認しながら広々とした山道を進んで行くと、ほどなく頭上に送電線が見えてきて尾根に出る。
尾根に出た箇所は北から延びてきた林道の終点であり、送電鉄塔巡視路との合流点でもある。ここは「山目野分岐」で、先に紹介した鉄塔巡視路入り口から登ってきたらここで合流することになる。分岐の北と南には送電鉄塔が立っていて、どちらも広場からは南に展望が開けている。
ちなみに、この日の私たちは片道登山だったが、往復するなら、帰路には山目野分岐から鉄塔巡視路を下ると楽しい。途中には大きな岩場や展望の良い伐採地などもある。
山目野分岐から送電鉄塔のそばを北に向かう。
「山目野分岐」からは草に覆われた林道を北に進んでから鉄塔巡視路のサインを目印に再び右手に現れる山道へと入ってゆく。
殺風景な植林にガスの立ち込めた薄暗い林を進むと、まもなく尾根の鞍部で道はなだらかになり、盛り土されて手の加えられた山道を終えてやがて坂道が始まる。
ところで、この北山越えを最初に実地測量したのはあの伊能忠敬グループであった。
文化5年(1808年)土佐に入った幕府測量方「伊能忠敬グループ」のひとつは、土佐湾を測量中に忠敬と別れ北山道を笹ケ峰まで歩いて測量している。海岸線沿いの測量が主だった伊能図において、険しい土佐の北山越えまで足を延ばしたのも、いかにこの道が重要な街道であったかをものがたるものといえよう。
伊能図に書かれた往還を辿る。