静寂があたりを覆い、自分の吐く息さえ消え入りそうな林の中を黙々と登る。
そんな変化の無い林の中で、ふと、ぐるり皮を削がれたモミの木が右手に現れた。登山道を歩くだけの私にとっては特に邪魔とも思えないモミの木だが、人の都合というのは相手の立場に立ってみないと分からない。立ち枯らすにはきっと何か理由があるのだろう。だがそれにしてもひと思いに切り倒してしまわないのがやけに無惨に思えて仕方ない。

ところで、道はその後いったん尾根に出てから、ほんの少しなだらかに行くと右手から延びてきた林道終点の近くを通過する。その林道を右下に眺めながらしばらく行くと、やがて登山道の脇に大きな岩が見えてくる。
道はその大岩の上を通過するので岩場から樹間越しに僅かに展望を得ることができる。仮にここを第1の展望岩としておく。


右手に見える「第1の展望岩」に向かって登ってゆく。

第1の展望岩を過ぎて更に進むと、道のど真ん中に植林されている所があって驚かされる。出し抜けに出会った伐採地もそうだが、民有地での保存行政の限界を見せつけられる思いがする。特にこのような往還を保存することの歴史的価値と、森林資源の活用とは、往々にして相反する場合が多いのである。

さて、往還はやがて尾根に出て、まもなく、再び大きな岩が右手に現れる。
登山道を逸れて岩の上に出るとこの登り坂で最高の展望を得ることができる、第2の展望岩である。


「第2の展望岩」の上に立ってみる。

岩場には白骨化したヒノキの株が絡みつき、白い花をまとったアセビや小さなマツが着生している。
晴れてさえいれば眼下に穴内川ダム湖が青く輝き、山目野橋などを見下ろしながらひと息つくにはもってこいなのだが、そんな素晴らしい眺めも今日はすべてミルク色のガスに閉じこめられてしまっている。
それでも、9代藩主山内豊雍が天明8年に詠んだという「川音の霧より下にきこゆるは是ぞ国見の峯にや有らん」の心境は充分に伝わってくる。

さて、第2の展望岩を過ぎてなだらかになった辺りで道の右手にそそり立つ大岩が現れる。この岩は「おけいの岩」と呼ばれ、道を挟んで左手には形の良いヒメシャラの木がある。
この大きな岩は道に面した下部が岩屋状に掘れ込んでおり、かつて往来の人々は急な雨などをここでしのいだといわれる。


岩屋状に掘れ込んだ大岩は「おけいの岩」とよばれる。

昔、古田村(現本山町古田)に「おけい」という男勝りの女性がいた。おけいは夜道の国見越えを苦にもしない気丈な女性だったという。
ある晩、雨に降られたおけいはこの岩のもとで火を焚き着物を脱いで乾かしながら髪を結っていたところへ飛脚が通りかかり、おけいの姿を「物の怪(もののけ)」と思い慌てて逃げ出すと、「お化けじゃないぞね、おじることはない(驚くことはない)、古田のおけいじゃ」といいながら後を追いかけたという。それ以来この岩を「おけいの岩」と呼ぶようになったという。

なお、ここは国見峠に向かう大名行列の最後の休場「高下御休場」ではなかったかと推察され、参勤交代北山道の「見どころ40選」にも選ばれている。


尾根が近くなると荒れた山道が続く。

「おけいの岩」を過ぎると、足もとに小さなスミレを見ながら雑木林と植林の境を進んで、やがて道は荒れたガレ場になる。
ゴロゴロした石や深い落ち葉を踏みながら進むと、辺り一面は雰囲気の良い雑木林になり、小さなキャンドルを幾つも灯したようなクロモジの新芽を愛でながら、花盛りのシキミのもとで木橋を渡るとほどなく町境の尾根に出る。
ここは国見峠から延びてきた林道の終点で、傍らには案内看板もある。
登山道の脇では枝一杯に雲を捕まえた一本のブナが梢から水滴を溢れさせ、足もとに一面のスミレを濡らしている。
なお、ここから林道を東に向かうとすぐに赤荒分岐になる。この分岐で左手に折り返すように西に向かう山道は赤荒峠への道であり、国見山に登る最もポピュラーなコースとなっている。


尾根に出るとブナが待ってくれていた。

ところで、ここまで歩いてきたルートを地図と照らし合わせてみると、地図の破線がかつての参勤交代道かというと、どうもそうではないように思える。
地図の破線はほとんどが尾根沿いなのに対して、私たちが辿った道は尾根のコブなどを巻きながら非常に効率よく上をめざしている風だからである。使われなくなった道がものの数年で跡形なく消え去るのを知っている私たちには、参勤交代の道も生活道や作業道としてトレースを変えながら生きてきただろうことが容易に推察できる。こうしてみると、参勤交代道の確実な特定というのは非常に難しいことである。しかし、所々に残る石畳などを踏みながら、古の道を歩いて歴史を肌に感じることができるのはありがたいことである。


赤荒分岐にて、赤荒峠に向かう登山道を見る。

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