さて、昼食後のコーヒーを飲み干した私たちは、再びザックを背負い送電鉄塔と別れて三辻森をめざした。
左手に照葉樹林、右手にヒノキの植林の境を進み、すぐに出会う分岐は左にとってヤセ尾根を進むと、鉄塔から10分ほどでコルを過ぎて上り坂になる。
足もとに所々ツルシキミを見ながら登り、ふと後方を振り返ると、長者ケ森の中継塔は遙かに遠くなっている。
この辺りも道の両側にはウンゼンツツジの群落があり、最近某ガイドブックでウンゼンツツジの山として目高森界隈が紹介されたことにも納得がゆく。
今でも時々手入れされているのだろうか、快適なヤセ尾根を進む。
コルから10分ほどで、左手に下げられた赤いテープを目印に尾根に取り付き、後は尾根筋を1分ほどで三辻森の山頂にたどり着く。
三辻森の山頂は狭く、3等三角点の標石が無ければ立ち寄ることもないだろう。
三角点の標石に簡単な挨拶をすませるとそそくさと元の山道に引き返し、再び南下を開始する。
三辻森の山頂。三角点の標石の傍に山名板が見える。
左手に木立の間から旭が丘をちらちらと眺めながら、落ち葉の深い山道を下るが、途中には赤土の滑りやすい箇所があるので濡れている時は注意が必要である。
三辻森から15分ほど南下してアカマツの立つ所から北を眺めると長者ケ森は遙か遠くに、目高森も随分遠くなり、あらためて回送縦走を選択して良かったと二人顔を見合わせた。健脚の方なら物足りないと思われるかもしれないが、もしもピストンで登山口まで引き返さなければならないとしたら、私たちはもうとっくに気力を失っていたことだろう。
ところで、三辻森の西側山腹には西日を受けて輝く「光り岩」という大きな珪石の岩があり、昔、山内一豊のお殿様が天守閣からその光を見つけて正体を探るため家来を大勢差し向けた騒動があったという。
しかしながら「光り岩」はその後、焼畑の火によって焼きふすべられ全く光らなくなったといわれる。
歩いてきた尾根筋を振り返る。
さて、三辻森を過ぎると白髪の集落は近い。
白髪の民俗を著した様々な書物にたびたび三辻森の名前が見えるように、この山の界隈はすでに白髪の生活圏であった。
炭焼きや山菜など、三辻森の豊かな恵みで生計を立てていた白髪も、燃料革命により木炭から石炭へと変わってゆく中でその糧を失い、わずかばかりの水田や畑での収穫物がかろうじて人々をこの地に踏みとどまらせていた。
しかし、山の山頂付近に広がる生活圏は水の確保が困難であり、少ない水田を潤すにも不足しがちなばかりか、戦後の植林事業が山の保水力をことごとく奪い去り、ついには生活用水にさえ事欠く有様だったという。
後ほど述べることになるが、昭和30年代にできた簡易水道施設ですら、時すでに遅かったのである。
掘れ込んだ山道の水たまりはイノシシのヌタ場である。
ところで、山道を歩いていると道の真ん中にイノシシのヌタ場が現れた。
夜行性の彼らは静まった夜更けにこの場所でヌタをうちくつろいでいるのだろう。
白髪の集落が賑やかだった頃は鉄砲撃ち(猟師)も多かっただろうから、植林に埋め尽くされて食料に難儀するとはいえ、獣たちも今の方が少しは暮らしやすいだろう。
そんなことも考えながら、更に10分ほど行くと廃棄されたバイクのそばを通り、植林を抜けると松葉踏む山道をなだらかに下り、やがて炭窯の跡や、石垣などの人工物があちらこちらに現れ始め、モウソウチクやマダケなどが目立ち始める。
尾根に積み上げられた石垣の上も、今や耕作放棄され植林に姿を変えている。
両側に広い耕作地跡を抜け、チャ(お茶)やグミ(グイミ)の木を眺めながら、植林の中まで竹に侵食されて荒れ果てた白髪集落の上部に入ると、間もなく林道に下り立つ。ここまで、三辻森から45分ほど。
下り立った林道は、10mほど上手に廃棄された赤い乗用車があり、こちら側から三辻森に向かう場合は登山口の目印になっている。
なお、山道への入り口には赤いテープも付けられているが、道標などは無い。
右手の山道から林道脇に下り立った。林道の奥に廃車が見える。