野地峰  2002年5月12日/2001年5月3日他

かつて鉱山で栄えた大川村白滝の上にある野地峰は三角点もあるれっきとした山ではあるが「野地峰越え」としての峠の風情もある。
銅山採掘の始まった元禄12年(1699年)から数年後に著された宝永3年(1706年)の「本川郷風土記」に「与州寒川村江出入之道」として記されているのがこの野地峰越えであろう、峠としてはイザリ峠や水の峠、高台越えなどとならび1000mを越える高所に位置するが、鉱山華やかなりし頃は数え切れないほどの人や物資が行き来した峠道であった。
しかし、四国のチベットと云われた白滝へ伊予方面から向かうには野地峰の他、法皇山脈など険しい山道が続き、鉱山に赴任を命じられた職員の中にはまさしく伊予の辞職峠で引き返しそのまま辞めていった人さえ居たという。
手元にある「大川村史追録」に白滝回想を寄せた小野誠一氏の文によれば、伊予三島から野地峰越えで鉱山社宅に帰り着いたその日は足が立たず一日中寝込む有様だったというから当時の苦労は並大抵でなかったことがうかがえる。もちろん中には健脚も居て、そんな三島までの道のりを日帰りしたという強者の話しにはまったく驚いてしまう。
今でもそんな健脚の御仁はおられるかも知れないが、足に自信のない私はポピュラーな白滝登山口から野地峰へと向かったのである。

野地峰登山口のある白滝へは、県道17号線(本川大杉線)から県道6号線(高知伊予三島線)を北上し、途中から白滝への看板に従い大北川を渡る。
白滝に入ると野地峰への道標に従って、水耕ハウスの前を通り山村広場に出てフェンス沿いに奥に行くと「野地峰登山口」の看板があり、近くにはトイレもある。
この広場は白滝鉱山の総合事務所跡や採掘で出た廃石(ズリ)の山を整地したもので、その膨大な敷地と廃石に往時の鉱山規模が偲ばれる。
車は広場の空いたところに駐車し、早速、歩き始める。


広場の奥にある登山口。右手の作業道を進む。傍らには純白のアセビの花が咲いている。(2001/05/03)

登山口からは、かつてトロッコ道だった未舗装の作業道を歩く。
右手下に春菊やほうれん草など軟弱野菜の水耕ハウスを見下ろし、向かいの山腹にはバーベキュー広場を眺めながらマツの木が立つ作業道を5分ほどで道標の立つ分岐になる。
つい最近まではここから植林の中を山道が上がっていたのだが、今は突きならしの車道が延びている。
この車道を数分でいよいよ山道になるがすっかり伐採された山肌には正直驚かされる。
夏でもひんやりとした林の中だった登山道が今は見事なまでに伐採されてかわりにヒノキやケヤキ、サクラなどの苗木が植栽されている。
これは平成14年4月21日に「国際ロータリー地区大会香川第一分区設立記念事業」としての植樹が行われたもので、麻谷山国有林の約1ヘクタールが対象となっている。
それにしても、自然界ならゆっくりと変わってゆく山の姿も、人の手が入るとこうも極端に急激に変わってしまうものかと今更ながらに驚いてしまう。
ともかくも、登山道はこの伐採後に植樹された山肌をジグザグに折り返しては上へと向かう。


植栽のために伐採された山肌を縫って登山道は延びている。(2002/05/12)

以前は樹木に覆われて感じなかったが、今は鋭く落ち込んだ山肌の傾斜に登るほど高度を感じながら上をめざす。緑色片岩だろうか、足元にはいくつか鉱物混じりの石がきらきらと輝いている。

登山道を登って行くと伐採されたおかげで南の展望を楽しむことができる。
Zの急登に息が上がったら、足を休めて眼下の白滝や斜面に放牧地が広がる早天山、あるいは前方右奥の黒岩山などを見上げながら汗を拭うことができるのは殺風景な伐採地の唯一の救いである。

さて、登山道が尾根に近づくと更に後方の展望は広がり、バーベキュー広場の奥には稲叢山(いなむらやま)や西門山(にしかどや)などが見えてくる。
登山口から約30分、標高1000mを越えてようやく登山道は植林の中に入って行き、間もなくちょろちょろと小さな水音と出会う。
この辺り、岩場からは幾筋も水が染み出していて地上にはフキに混じってワサビも生えている。
水場と呼ぶにはあまりにも心もとないが、こんな清水とはこの上方でも2箇所ほど出会う。そのうち、ここより5分ほど上にある小さな流れは比較的水量があり夏でも涸れることはないので水場として利用できそうである。


薄い霧が立ちこめる登山道。水場の付近にて。(2001/05/03)

水場を過ぎると登山道周囲の木々は次第に低くなり、山肌を折り返すたびに展望が開け、稜線も間近になってくる。
東に黒岩山から早天山への尾根筋が長く尾をひき、その黒岩山からこちらの野地峰にかけてはミツバツツジを主にした樹林が広がる。
5月の連休頃ならあでやかに咲きそろうミツバツツジが山肌を花色に染められるほどで、これほどの群落は県下一とも言われている。
もちろん登山道にもあちらこちらにツツジの花が咲き、度々足を止めては和んでしまう。


ミツバツツジの咲く登山道をゆく。(2001/05/03)

やがて樹林帯を抜けると美しいササのスロープの中を進んでゆく。
足元には今が食べ頃のイタドリや、白い花時のキイチゴを見ながら、そして目を上げれば南方に幾重ものやまなみを見ながら額の汗に受ける5月の風が心地よい山歩きになる。
眼下に白滝を遠く俯瞰しながらササの中を行くと、相変わらずの登り坂も苦にならない。


南には稲叢山(右奥)などのやまなみが広がる。左手前の山は早天山、右下に白く見えるのはバーベキュー広場付近の建物。(2002/05/12)

眼下に見える白滝はかつて鉱山で栄え、別子、佐々連尾に次いで四国第3の産出量を誇っていた。
採掘された鉱石は索道により野地峰を越えて伊予三島に運ばれたが、その索道は30kmにもおよび、月産1万トンあったその坑道は地中深く延びて海面下116mにも達し、最奥の現場へは往復4時間を要したと言うから凄まじい。
ここには一時2000人を超える従業員とその家族などが密集した鉱山の街に暮らしており、小都市と化した「白滝銀座」では映画館やパチンコ屋などが随分賑わっていたという。
当時少年だった私は「幸せの黄色いハンカチ」という映画などでしか鉱山の町を知らないが、当時そこに暮らした人々は過酷な採掘作業も四国のチベットも住めば都と様々な夢を見ていたに違いない。
しかしご多分に漏れず、元禄の頃から断続的に採掘を続けてきた鉱山も昭和47年にはついに閉山の時を迎えるのだが、不幸にもそのただ中に全焼27棟被災者95名にも及ぶ大火災で追い討ちをかけられる。更に大川村は、船戸・下小南・川崎など村の中心部が新築間もない「ダム反対の砦」である村役場とともに、昭和48年に完成した吉野川早明浦ダムの湖底へ沈むこととなり、こうして往時は4000人余の住民が暮らした村も今では500余名の高知県一小さな自治体になったのである。
その後、一時廃墟同然となっていた白滝鉱山跡は、現在「教育・観光・レクレーション団地」が整備され「自然王国白滝の里」として県内外によく知られるようになった。と同時に、鉱山閉山後深いササに埋もれて廃れていた野地峰への道も、自然王国白滝の里の再生と共に快適なハイキングコースとして甦り、こうしてかつての往来の残り香を感じながら歩くことが出来るのはありがたい限りである。


ササのスロープを横切る。右上には反射板が見える。(2001/05/03)

大川村の盛衰に現代の企業都市の危うさをオーバーラップさせながら、まるで山歩きに相応しくないような事をぼんやり考えながら歩いていると、やがて右上の稜線に水資源開発公団の建てた反射板が見えてくると山頂はもう目の前である。
反射板への分岐をやり過ごすとほんの2分ほどで山頂に着く。ここまで、ゆっくり歩いても登山口から1時間足らずの道程だった。

進む