野根山  2000年8月26日

「一里塚(里程塚)を見に行こう」、相も変わらず単純な発想から私たちは野根山街道に向かった。
奈半利(奈半利町)から甲浦(東洋町)に向かう野根山街道には、一里塚から七里塚までがありしかもそのすべてに遺構があるという、今回私たちはその街道のほぼ中央にある最高峰「装束山(しょうそくやま)」を経て、四里塚を拝し四国百山「野根山」に向かうことにした。

野根山街道は、養老官道(養老3年(719年)に着工)として開かれて後、土佐と上方を結ぶ重要な交通路として多くの人々に利用されてきた。遠くは紀貫之(きのつらゆき)の入国、土御門上皇(つちみかどじょうこう
(注*1))など高貴な人々の流遠(おんる)の道としても、藩政時代には参勤交代の道として、また幕末には維新動乱の道として様々な歴史を重ねてきた。近年車社会への移行に伴い海岸線の道などが主流となってからも、街道は豊かな自然や史跡をめぐる自然遊歩道「四国のみち」として今なお生き続けている。
今回は、「四国のみち」として整備されている<宿屋杉のみち18.8km>と<岩佐関所のみち16.8Km>の合計35.6Kmのうち、岩佐の関所跡界隈の約5km(往復約10km)を私たちは歩くことにしたのである。

安芸郡北川村を流れる「野川川(奈半利川の支流)」を遡り、野川林道を延々と車で詰めて行くと、およそ1年ぶりに訪れる装束無線中継所(電波塔)が見えてきた。電波塔のある広場はアマチュア無線界では通称「装束(しょうそく)」と呼ばれ、県内屈指の移動運用地として広く知られている。
今回のスタートはこの電波塔からである。
手前の電波塔広場に駐車し、案内板の脇を通って、奥に立つ高知県防災行政無線装束中継局のアンテナに向かう。登山口は中継局の裏手にある。


高知県防災行政無線装束峠中継局の奥に、街道への入り口(登山口)がある。

普段なら登りから始まるのが当たり前の登山口から、いきなりの下り坂が始まる。
植林の中、背丈を超えるササに両側をおおわれた登山道を下って行くと、登山口から約7分で野根山街道と合流する。
合流点には「参勤交代の道」の案内看板や「四国のみち」の指標が立っており、ここを右に1.2Kmほど下ると有名な「宿屋杉」があるのだが、ここは左に装束峠方向を目指して進んで行く。

木々に覆われてやや薄暗い街道を歩いて行くと、野根山街道と合流してからおよそ10分で空が開けて熊笹峠に着く。


熊笹峠には休憩用に木のベンチが設けられている。

名前の通りササに囲まれた峠で木のベンチに腰掛けてひと息つく。
辺りでは立ち枯れたスギやヒノキの風衝木が数本、空に突き出して潮風を受けている。
峠から南には太平洋が広がり、足元の山々は緩やかにその海へとそそいでいる。


熊笹峠から南には太平洋が広がる。中央には奈半利の町が見える。

ひと息ついてから熊笹峠を後に街道を進んで行くと、承久3年(1221年)に「承久の乱」で土佐に都落ちしてきた土御門上皇(つちみかどじょうこう)の歌碑と出会う。
歌碑には、上皇が降る大雪を払いながら詠んだという「うき世には かかれとてこそ生まれけめ ことわり知らぬ わが涙かな」が刻まれていて、運命に流される上皇の悲哀が伝わってくるようだ。

さて、歌碑を過ぎると街道上に装束山(しょうそくやま)への指標が現れる。ここまで熊笹峠から約7分。
「装束山60m」の指標通りに分岐を右へと、丸太の手すりに沿って登ると野根山山系の最高峰である装束山(標高1082.9m)の頂に出る。
装束山山頂には、丸太で作られた展望台(兼休憩所)が有り、足元には一等三角点本点の標石や国土地理院の標柱などがある。


装束山山頂。手前に一等三角点本点の標石がある。展望台からは北に剣山系、南に太平洋が見える。

展望台の上からは特に南の展望が美しく、かすみながら同化する太平洋の水平線と青空の眺望を楽しんだ後、装束山を下り再び街道に戻る。
街道を更に進むと、約7分で街道上にある装束峠(標高約1070m)に着く。
峠には「装束峠」のいわれを説明した案内板があり、それによれば、装束峠の由来については殿様が参勤交代の帰りにここで旅の装束を替えられたのでこの名がついたともいわれ、また一方、田野・奈半利へ嫁入りする花嫁がここで山装束を花嫁衣裳に替えたところからこの名前が生まれたともいわれている。

さて、この装束峠から街道を脇道にそれて、クマザサの間を南に石畳をおよそ100m(歩行約2分)ほど進むと、参勤交代の際などに藩主が駕籠を置き休まれたといわれる藩直営の「お茶屋場」跡に着く。
ササや樹木に囲まれたお茶屋場のあたりには、ベンチやテーブルが設(しつら)えており、かつては
藩主以外の通行や立ち入りが禁じられていたお茶屋場も今はハイカーの格好の休憩場所となっている。
なお、石畳の奥には駕籠を置いたであろう「お駕籠置石」がある。

(注*1)
土御門上皇(1195-1231)は承久の乱には直接関係はなく、乱後に自ら進んで土佐に落ちたといわれることから、厳密には遠流とはいえないかも知れない。

進む