大畑山  2005年2月

きっかけは一通のメイルからだった。「大畑山に山内家の標柱があるのをご存知でしょうか?」。高知県の山々を精力的に歩いてる女性登山者からの「謎掛け」のようなメイルだった。山内家とはもちろん土佐藩主山内家のことである。ちょうどその頃、私の掲示板は「郡界標」(*1)探しの話題で盛り上がっていた時期だった。郡界標なら実物を知っているけれど、山内家の標柱とはいったい如何なるものか。こういうことに造詣の深い友人にさっそく連絡すると私以上に色めき立った。その週末の行き先はふたつ返事で大畑山に決まった。

大畑山は高知市の市街地にある低山だが、この山に登るなら黒崎越えを歩いてみたいと常々思っていた私は、東孕から登り十津に下る計画を立てて片道縦走を開始した。登山口は東孕にある民家の脇である。

(*1)藩政時代に郡の境を定めて立てられた標柱で郡境碑ともいう。文化年間測量の「伊能図」などにも記載があるが現在は行方不明のものも多い。


民家の脇から黒崎越えの山道に向かう。

一軒の民家の脇から水路に渡されたコンクリート製の橋を渡り、竹林に向かうといきなり分岐が現れた。真っ直ぐ行くのが昔ながらの黒崎越えの道である。しかし、「今は荒れているので右へ登った方が無難」だという里人の忠告に従い、ひとまず安心な鉄塔巡視路を辿ることにした。
短い階段を登り終えると、照葉樹の落ち葉を踏みながら窪まった山道を登ってゆく。やがて左右に墓地を過ぎて、左から巻いてきたかつての黒崎越えと出会うと大畑山トンネル北口のちょうど真上に出る。振り返ると北に五台山などの見晴らしが良い。
ここで山道は再び分岐になり、直登する巡視路と左手に山腹を巻くかつての黒崎越えとに別れる。見やるとかつての古道もそれほど荒れている風には見受けられなかったので、私たちは少し「冒険」をして黒崎越えを歩いてみることにした。


広々とした黒崎越えの古道も今は通る人すらなく、この先で荒れ気味になる。

一間幅の広い道はゆうゆうと峠に向かって山腹を延びている。向かいの山肌は一面の植林だが、こちらは雑木林で、辺りに大きなクスノキが多いのは土佐の特産「樟脳」を採取するために植えられたものだろうか。明治時代、三里には樟脳や塩を扱う専売所(大蔵省撫養塩務局三里出張所)があったが、これはその時の名残であろう。さて、正面に尾根が近づき、モウソウチウの竹藪が見えてくると道は右に折り返すが、この辺りから倒木も増えていささか荒れ気味になる。昔は山芋を掘ったりヒヨなどの小鳥を捕ったりと頻繁に山に入っていたそうだが、今は山菜すら少なくなりご多分に洩れずこの山も荒れ始めている。戦前は陸海軍の兵士が休暇のたびに急ぎ足で越えたという黒崎越えも、終戦を境に人通りはめっきりと減って、今さら古道を歩くのは私たちのような物好きくらいなのかもしれない。しかもかつての道をショートカットする巡視路の影で古道はますます忘れられようとしていた。


やせた尾根を辿って峠に向かう。

鉄塔巡視路の方が断然快適だったと後悔しはじめる頃、先ほどのトンネル上部から直登してきた道と合流してひと息ついた。ここからは快適なヤセ尾根を経て黒崎越えの峠に着く。「万葉集古義」の著者として有名な鹿持雅澄をして「梯立のさがしき山」(*2)と詠ませた黒崎越えも登りきれば小半時とかからなかった。
峠は人工的に尾根を切り通した、古道の雰囲気溢れる場所だった。かつて休暇で故郷に向かう兵士も、この峠で息を整えると一気に麓へ駆け下りたことだろう。
峠を池側に越えたところには小さな水たまりが見えている。小さな岩のくぼみに僅かな水が湧いているのだが、これは「ヒヨの水飲み場」と呼ばれている。とても人の用には足せそうもない水たまり故にこう呼んだものかもしれない。なお、ここから東に向かうと池と唐谷を結ぶ千度里坂への尾根道があったそうだが今は忘れ去られている。

(*2)「みつけ神ちはひによりて梯立(はしたて)のさがしき山もやすく越えけり」。国学者鹿持雅澄(1791〜1858)が黒崎越えを前に麓の青木家で心のこもった接待を受けたお礼に詠んだ歌で、食物の神の加護により梯子(ハシゴ)を立てたように険しい山も容易く越えられます、といったような意味である。(参考文献=三里地区史跡報告/高知市教育委員会)


三方が切り抜かれた黒崎越えの峠にて。