大滝山  2003年12月7日

役小角(えんのおづぬ)を創始者に据えることで呪術的要素を増した修験道は平安時代から爆発的な広がりを見せ、葛木山を源として熊野、出羽の三山や吉野、日光、立山、白山、大山などあまねく全国に浸透していった。明治5年(1882年)の太政官布達をもって衰退していった修験道だが、盛期には彼らの修行場である山岳霊場は至る所に設けられ、四国では石鎚修験を頂点に裾野は300mにも満たない低山にまで及んでいた。そこに修行者が居て、岩場や滝(崖)などの行場があれば名も無き低山も霊場と化していたのである。土佐に於いても横倉修験や白皇修験、大峰、五在所、高板などがよく知られており、享保2年(1717年)には300名ほどの山伏が白衣の結袈裟で山中に修行を繰り返していたことが分かっている。
現在山頂に石鎚神社を祀るここ日高村の大滝山もそのような霊山のひとつであり、麓にある護国寺の本尊「大日大聖不動明王」や九頭と呼ばれる地名にも修験の芳香を嗅ぎとることができる。特に山中に点在する石仏群や体内くぐりの洞は特筆すべきものといえよう。
そんな大滝山に登ったのは木枯らしの吹く師走のことだった。


立派な案内板の立つ登山口から送電鉄塔をめざして登り始める。

日高村総合運動公園のそばにある登山口から歩き始めると、階段を登るほどに風が強く感じられる。南国土佐の平野部にも本格的な冬の訪れを感じさせるような冷たい北風が容赦なく吹き荒れて、背後のメダカ池(日下川調整池)に翼を休めているカモの群も心なしか寒そうに見える。
帽子を飛ばされないように押さえながら、丸太に似せた疑似階段を登りきると、緑のフェンスで囲まれた展望広場に出る。
広場には東屋風の休憩所があり、そばには送電鉄塔が立っている。眼下には運動公園の半円のドームが目立ち、眼前には土岐山が古城址らしい山容を見せている。
ここからは片隅の貯水タンクに向かって展望広場を対角線に横切ると、道標に従って一旦坂を下る。


展望広場から東には土岐山が聳え、麓に運動公園を見下ろす。

左下にテニス場や球場を見ながら林に下り込むと、十字路を直進し植林の中の山道を登る。上り下りして緩やかに山腹をトラバースしてゆくと分岐ごとに指導標がある。里山は幾つもの山道が複雑に入り交じっているが、こうして道標が整備されていると安心感がある。
やがて、昼でも薄暗い植林から照葉樹の林に変わる頃、木製の手すりが施された横道を辿って尾根に出る。尾根の十字路は指導標に従って左折し、44番の送電鉄塔に向かう鉄塔巡視路との併用道を進む。

落ち葉をカサカサと踏みながら、雑木林を歩いて行くと、北風を辛抱強くこらえて小枝にしがみついている黄色い葉っぱも寒さに震えて見える。右下には九頭の集落を覗き見ながら快適に山道を登る。


尾根に出る。指導標が豊富で心強い。

周りが再び植林になると山中には耕作放棄された畑の名残らしい石垣も見えてくる。
登山道はまもなく十字路を過ぎると植林の中の急坂になる。息を切らせて植林を抜けると、辺りは照葉樹林になり、前方に送電鉄塔が見えてくる。なだらかになった山道は鉄塔の右横を通り、フェンス沿いに進むと左手に引き裂かれたような、いかにも曰くありげな大岩が現れる。行場にも思えそうな大岩も、残念ながら何ら証は認められない。

大岩を通過するとすぐに縦道と合流する。ここにも指導標が立っている。山頂まではあと600mほどである。
ここで標識通りに進むと、すぐに分岐が現れる。ここには道標がないが、どちらを歩いても上方で合流する。試しに私は直進し、状態の良さそうな下手の山道を歩いてみた。
竹混じりの植林を行くと、前方に大きな岩場が見えてきた。オーバーハングした大岩は登山道に迫り出している。その岩の下をくぐるようにして滑りやすい赤土の道を登り、右上へと方向を変えて直登すれば、先ほど分岐で分かれた道と標識のたもとで合流する。


登山道におおいかぶさるような大岩。

この辺りで注意してみると廃道となった山道が見当たるが、それを行くとオオナロという所に「五郎が滝」という断崖があるという。大滝山には様々な山姥伝説があるがこれもそのひとつで、その昔、大滝山山中にある「山姥の洞窟」に暮らす美しい「山うば」に恋した沖名の醜男「五郎」は、無理矢理に「山うば」をわがものにしようとして、「山うば」の息子で怪力の「金太郎」に追われ断崖から墜落死したといわれている。以来、五郎の落ちた断崖を「五郎が滝」といい、金太郎がその時に持ち上げた石を「金太郎の力石」と呼んでいるそうである。山姥といえば農耕の神や恐ろしい妖怪として語られることの方が多いが、ここでは恋愛談として語り伝えられている珍しい例である。

さて、登山道は丸太の土止め階段を登りきると、正面に驚くほど大きな岩が聳えて現れる。巨岩の背後には石積みの跡が認められ、山中にはどれもこれも行場になっていて不思議ではないような大岩が点在している。昼なお薄暗い山中に散在する奇岩をして様々な伝説を産んだのであろう、ここから大滝山山頂に向かう忘れられた山道沿いには先ほどの「山姥の洞窟」があり、「山姥の鏡岩」もあるという。
なお、一般的な登山道ルートはこの巨岩のもとで標識に従い、T字路を右手にとると、山頂の近くにある大滝公園まではほど近い。


登山道の曲がり角に聳える巨岩。

右手に北のやまなみや麓の集落などを垣間見ながら山腹をトラバースすると、左手に屏風のような大岩を通過して、大滝山公園に辿り着く。
広々と刈り開けられて整備された公園に出ると、空が開けて頭上を北風がうるさく吹き抜けている。見上げると山頂はもうすぐそこにまで迫っている。
記念植樹された公園には送電鉄塔が立ち、大滝山奉賛会により「鎮護国家」と刻まれた記念碑が建てられている。戦前は毎年建国祭が執り行われていたようだが戦後途絶えたという。
広場には台座を除いても1mはあろうかという立派な石仏(地蔵)があり、「村中安全、文政十年」の文字が見て取れる。その傍らには櫓に組まれた展望台もあるが、今は老朽化して使用に耐えない。しかし、展望台に上がらなくても公園からの眺めは素晴らしい。特に南に点在する「センジンガ岩」の断崖上部からの眺望は見事で、日下川を挟んで北に陣が森や清宝山が横たわり、背後には五在所山や鷹羽ケ森が控えている。西にかけては、黒森山や横倉山が際だち、肩をかすめて鳥形山や明神山が見えている。
そんな岩場や公園には「せいたか(制多迦)童子」や「せんしや(船車)童子」などを刻んだ石仏が鎮座しているが、案内板などによると、これは山頂にかけてあちらこちらに配置されている三十六童子(*1)石仏群のひとつであるとされている。
しかし、今回私が山中に訪ねてみた限りでは、どうもそうではないように思えたのだが、それは後ほど詳しく書いてみたい。

(*1)童子とは護法のひとつ。護法とは仏法を守護する鬼神・精霊の類を意味し、護法童子は一種の使役神で、陰陽道でいうところの式神にあたいする。修験道では役小角(えんのおづぬ)の眷属である前鬼・後鬼(ぜんき・ごき)が有名で、不動明王に従う制多迦童子・矜羯羅童子(せいたかどうじ・こんがらどうじ)など36の眷属を総じて不動三十六童子という。他に大峰八大童子(八大金剛童子ともいう)などがある。

 
記念碑の立つ大滝山公園(左)。「船車童子」の背後に清宝山などのやまなみ(右)。

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