かつての表参道を辿る登山道はまもなく尾根に出て「不入の森(1049m)」への分岐になる。このコルは「矢筈」と呼ばれている。右に行けば篠山の山頂だが、ここはひとまず山頂とは反対に歩いて「不入の森(いらずのもり)」を散策することにする。
かつて「西の森」と呼ばれていた「不入の森」にはコウヤマキの大木が群生し、アケボノツツジもここから山頂一帯にかけてその数3000本という全国屈指の大群落を形成している。そんな林にはところどころヒメシャラの赤い木肌やハリモミの緑がアクセントを加えて独特の風景を醸し出している。
コウヤマキの大木が林立し、アケボノツツジが花を咲かせる「不入の森」。
楽しみにしていたアケボノツツジは幸いなことに今が見頃だった。
数日前の嵐で随分と花を散らした木もあったが、総じて今が盛りとピンクの花びらをまとめて咲かせている。樹齢100年を超えるという多くの古木も一面に花をまとった姿は乙女のようでさえある。
そんなアケボノツツジの大木のそばには思い思いにカメラを構えた写真家が大勢いる。私もそんな一人になってこの素晴らしい景色を切り取ろうとファインダーを覗いてみた。しかし、とても直(じか)に見た美しさを取り出すことはできなかった。つまり、それだけ「絵にも描けない」素晴らしい景色なのである。
篠山のいちめんを染めあげる華やかなアケボノツツジの群落。中央にハリモミやコウヤマキの針葉樹も見える。
さて、不入の森での散策を終えると、尾根を引き返し、山頂に向かう。
まろらかな仔犬のような狛犬や立派な台座で大きな耳を垂らした狛犬達に迎えられ、100段余りある石段を登り、やがて鳥居をくぐると、正面に篠山神社が見えてくる。
伊弉冊尊(イザナミノミコト)などが祀られているという篠山神社に一礼すると境内の奥に向かい、一段高いところに上がると篠山の山頂に至る。
今日の篠山の頂は多くの人で溢れかえっている。
石段を登りきると篠山神社の社に着く。山頂は社の裏手にある。
篠山の頂きに立つと、真っ先に目につくのは明治6年10月の銘のある土予国境の石標(標柱石)である。石標には「南伊豫國境、北土佐國境」と刻まれている。
あの国境紛争から約200年後の明治6年に両県知事立ち会いのもとであらためて県境を見直し、稜線を境として、記念に立てられた標柱である。そして、この時以来「篠山神社」は愛媛県に属することとなったのである。
また、山頂の中ほどには頭を赤いペンキで染めた二等三角点の標石が埋まっている。
篠山は「山上に義篠あり、森華浸々峰頂を包む。恰も青氈を敷くが如し。絶妙なる哉、景徳を挙げて篠山と号す。」というように山頂一帯がミヤコザサに覆われていたことから名付けられたものだが、三角点の付近はゴツゴツした岩と裸地に化している。
その三角点のそばには矢筈池(矢筈ノ池)と名付けられた小さな水溜まりがあり、水面にはアケボノツツジのピンクが映っている。
この池の周りにはかつてササが覆い茂っていたと言われるが、このササは万病に効き、特に馬の病に効くと言うことで、夜な夜な神馬が現れてこのササを食してしまったと言われている。
ところで、この矢筈池こそが、実は、前に述べた国境論争の発端ともなった問題の池であった。
篠山山頂にて。左手に土予国境の石標が立っている。手前は三角点の標石。
古来から土佐藩と宇和島藩との国境を詠んだ歌に「笹矢筈、正木川分ケ、松尾坂、(以下略)」という歌があって、笹(篠)山は矢筈が境で、正木は川が境だと歌われていた。
ここで問題になるのは矢筈の解釈であり、土佐側の言う矢筈とは「篠山山頂(東の森)と不入の森(西の森)との間のコル」であり、宇和島側は「山頂の池にある矢筈石」であるというのである。
かつて篠山が「矢筈山」と呼ばれていたことや、同じように矢筈の形をした山が矢筈山と呼ばれることなど、その由来となる山容(扉のページの写真を参照)から鞍部を矢筈とした土佐藩に対して、宇和島藩は山頂の小さな池にある長さ1尺5寸(約45cm)幅6寸(18cm)ほどの「矢筈型」の石を"古来"からの矢筈として土佐藩に対抗したのである。
ここで国境について歴史を遡れば、天正の地検帳には「篠矢筈、東ノ森ハ土州分也」とあり、更に遡れば、観世音寺の鐘の銘に「与州観自在寺、正長二年」ともある。
無理もないことであろう。土佐一条家の伊予支配、長宗我部の四国統一など、近世まで境界は定まっていなかったも同然であった。もともと国境というのはその時時に引く線なのである。
今思えば滑稽なような論争だが、当時の村人にとっては大きな問題であり、それだけ篠山が豊富な森林資源を有していた歴史的証でもある。
篠山国境論争の発端ともなった「矢筈池」。
さておき、今や土佐も伊予も「日本国」に変わりはなく、かつての国境論争はもう遠い過去のことでしかない。たった今、この頂には土佐人も伊予人も入り乱れ、皆等しく春を愉しんでいる。
そんな人々に混じって、私たちも山頂の片隅で一息つくことにした。
眺望の良い山頂からは瀬戸黒森や大黒山などを眼前に、譲が葉森などを越えて鬼ケ城連峰が望まれ、盟主三本杭がひときわ聳えて見える。
西には宇和海や豊後水道が、澄み渡ればその奥に九州を遠望することもできる。
眼下に広がる天然林や頭上のアケボノツツジを楽しみながら、そんな景色と飲むコーヒーはひとしおである。
山頂でコーヒータイム。中央奥は瀬戸黒森の頂。