さて、おまん姫の墓から約13分ほど伐採地の縁を南に進むと右手に枝道が現れる。
ここは真っ直ぐに続く道を外れ、分岐を右に折れてから上方の県境尾根に向かう。
土予県境の尾根に出てからは踏み跡を頼りにアカマツ林の中を進んで行く。
しばらく、ほぼ尾根に忠実にヒノキの植林とアカマツ林との境を登って行くのだが、踏み跡を失っても注意して見れば青や黄色のテープが行く手を導いてくれる。


県境の尾根沿いに林を登る。立木に黄色や青の目印がある。

尾根に出てから5分ほどで道は植林に入り、更に踏み跡を辿ると、県境に立つ標柱に沿って右に植林、左にアカマツ混じりの雑木林を見ながら進むことになる。
やがて植林の縁で小さな張り出しに出て小休止をとる。ここまでおまん姫の墓から約27分。
蒸し暑い夏の、しかも四国西部の低山での山行きだが、小休止する植林では谷底から林を抜けて這い上がってくる風に全員至福の声をあげた。

渇いた喉を潤すと再び高研山山頂に向かいザックを背負う。
ここからは植林の縁を辿り、赤テープを頼りにスギ植林を直登すれば、ほどなく小さなピークに出て、ピークからは眼下のコルまで一挙に下り、再び正面の山肌に向かってアタックを開始する。ここはやや複雑な地形で双子尾根(二重稜線)に挟まれた窪地は「池床」とも呼ばれるようにルートを誤らないよう注意して稜線を辿る。
ちなみに、ここからの直登は足場を選び木の根を掴み、息の上がる急坂を這い上がることになる。


急坂を這い上がる。

標高差40mほどの急坂を登りきるとなだらかな尾根に立ち額の汗を拭う。
ここには祠の跡であろう石積みが認められる。
これがおまん姫ゆかりの祠なのだろうか、現在は崩れかけた石積みが残るだけである。
石には石工の名が刻まれているが風化して判読はできない。
祠は北東に向いて建てられていたようで、山岳修験の祠なら石鎚山を遙拝していたのかもしれないが、あるいはおまん姫ゆかりのものであれば遠く京の都を向いて立てられていたものなのかもしれない。
ちなみに、地元ではこの場所がおまん姫の本当の墓であると言い伝えられており、また一説には落ち武者の墓であるともいわれている。


おまん姫ゆかりの祠といわれる石積み。

さて、祠の跡を過ぎると尾根に沿って植林の中をなだらかに行き、やがて村有地の標柱が立つ辺りから再び目の前に急斜面が立ちはだかる。
ここからはガレた斜面をよじ登るのだが、帰途はこの場所から東に逸れて山腹を横切る旧道に降りることになる。


最後の急坂を登る。

中生代四万十層群の砂岩と頁岩(泥板岩)からなる高研山は、その地質にくわえて急峻な地形もあって最後の急坂は非常に登りづらいが、どうにか足場の悪い急斜面を登りきるとなだらかに標高を重ねて、行く手の右側は雑木林に高知県側はヒノキの植林に変わると間もなく尾根の縁に出て、登山道は南東方向に向きを変える。
ここまで来れば山頂は目と鼻の先で、最近間伐された明るい植林の中、疎らなスズタケを踏んで水平に歩いてゆくと、ほどなく山頂に着く。山頂の手前には高研神社があったといわれる。


明るい植林の中、なだらかに稜線を進む。中央奥が三角点のある高研山山頂。

辿り着いた高研山山頂はまわりを植林とスズタケに囲まれ展望は皆無。
殺風景な山頂には4等三角点の標石と倒れた石の境界柱がある。
三角点の標石には国地院の文字と番号が刻まれ、傍らで横たわる境界柱には「昭和36年日吉村」の文字が見て取れる。


高研山山頂の三角点と日吉村の境界柱。

ところで、手元にある1/25000の地図では高研山山頂の南に道の表記がある。
その道は高研山の東を南北に走る歩道と合流しており、その南北に走る道に出ることができれば帰途のバリエーションは随分広がる。
しかし山頂の南側にはスズタケが密生しており探索は容易ではなく、また、山頂から直接南北の道に向かうにしてもスズタケを避けたところで間伐されたヒノキが無秩序に横たわる中での行軍は感心できない。
そういう訳で、ひとまず殺風景な山頂を後にして往路を引き返し、そこそこ開けた箇所で昼食をとってから下山コースを検討することにした。

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