滝ノ平 2004年1月
その山の頂には八面王という「怪物」が祀られていた。
八面王(やつらお)とは、頭が八つある猿とも、ヤマタノオロチのような蛇の化け物だとも言い伝えられている。そんな怪獣がなぜ山の上に祀られていたのだろうか。
忘れ去られようとしている信仰の里山を訪ねて、かつて久重山と呼ばれていた山村の集落に来た。
白髪(しれげ)と時を同じくして集団移転し廃村となった芸西村の宇留志や板渕、あるいは大屋敷、ツヅラ尾そして限界集落の久重や白木山の上にその山はあった。廃れてしまう前に見ておきたいと出かけてきたが時すでに遅く山頂の神社は遷座された後だった。それでも、諦めきれない私たちは一軒の民家の戸を叩いた。
「山の上には八面王(やつらお)さんという偉い神様が祀られちょったけんど」と、訪ねた民家の軒先で老婆は遠い記憶を探るように語り始めたが、「けんど、女は行っちゃあいかんゆうき、あたしらぁ石段から向こうには行ったことがないがよえ」と、申し訳なさそうに言って頭(かぶり)を振った。それならば尚更この眼で見てこよう。老婆に礼を告げると、「幸い今日は男ばかりだから」と、冗談口をたたきながら登山口へ向かった。
久重から大屋敷に向かう車道を行くと、かつて賑やかな声に包まれていた久重小学校跡が左上にある。更に行くと立派な石垣が残る屋敷跡にはタキミシダ(*1)もあった。それぞれにひと目立ち寄ると再び車を走らせる。相変わらずである。このメンバーだとすんなり登山口に着く方が稀である。
車道が尾根を巻く辺りで、ようやく登山口の目印である貯水タンクが見えてきた。登山口はタンクの手前にあるのだが、駐車スペースを探して数百メートルほど行き過ぎると小谷のそばの空き地に車を滑り込ませた。
(*1)タキミシダ(滝見羊歯)は伊豆半島以西の本州や四国、九州などに自生するシダ(羊歯)で牧野富太郎博士の命名による。ここのタキミシダは山内さんの個人的なご厚意により公開されている。
支尾根を越えるカーブの左上に貯水タンクがあり、その手前に登山口はある。
身支度を調えると車道を引き返して登山口から山道に入る。貯水タンクの上に向かうように細い踏み跡を辿ると、すぐにお堂の跡らしき平地に出た。片隅には戦前の手水鉢が残され、奥にある山道のそばには線刻(線で彫られた)の地蔵がある。ここにはかつて地蔵堂があったといわれ、土佐州郡志に記されている地蔵堂とはここのことであろう。
さて、お地蔵さんの傍からはしっかりとした山道が上方向に延びている。
山道はいたって明瞭で、ほどなく支尾根に出るとその尾根を登ってゆく。辺りはマツ混じりの照葉樹で、ところどころ倒木を跨いだりくぐったりしながら進んでゆくと、冬の青空が清々しい。
まもなく右手からのそば道と合流すると少しなだらかになり、やがて小さなコブを通過すると、樹間から山頂がちらほら見えてくる。支尾根沿いにアップダウンを繰り返しながら行くと、さすがに所々で道が判然としなくなるがそんな時は支尾根を辿ればたいして問題もない。
支尾根沿いの山道を辿る。
やがてコブを越えて少し下ると辺りは植林になり、十字路が現れる。右手は山腹をなだらかにトラバースし、左手は山肌を下っている。ここは直進して最近伐採された支尾根を辿って行く。ほどなく植林と照葉樹の境を辿る頃、正面に石段が見えてきて再び十字路が現れる。石段の手前で左に向かう山道は白木山に下る道で、右は大屋敷に下る道である。ここももちろん直進して石段に足をかけるのだが、登り始めると突然H氏が声高に数を唱え始めた。石段の段数を数える彼の声を追いかけながら、ヒノキの若木林や雑木林に挟まれた急な石段を登る。やがて石段の歩み幅が狭くなり傾斜も次第に増してきて、H氏の声に喘ぎ声が混じり始める頃、120段あまりを登りきり町境の尾根に出た。
一段ずつ確かめるように石段を登ってゆく。
登ってきた石段の方を振り返ると、木々の間から僅かだが芸西村の園芸地帯が覗き、太平洋も見えている。植林される以前には素晴らしい眺望が広がっていたというのも納得できる。
ここで、尾根を左に数歩も行くと、三方を石積みに囲まれた八面王神社の境内跡である。その奥には小さなお宮が祭られているが、抜け殻だけの祠は今や八面王にとってかわって小動物の住処となっている。
石段を登り切ると南にわずかながら眺望が開けて、光り輝く太平洋が目に飛び込んでくる。
ところで、あまり聞き慣れないこの「祭神」八面王(やつらお)の正体は何であろう。
八面神というと天慶八年(945年)に志多良神という神がもたらされ、平安時代以降庶民に熱狂的に受け入れられたという記録があるが、その神が八面神といわれ、八幡神の眷族ともいわれる。あるいは八面荒神などからの流れを受けて、これに土佐のいざなぎ流祈祷が何らかの影響を与えて祭神となったものであろうか。しかし、土佐でいうところの八面王とは、頭が八つある猿とも蛇とも猩猩(しょうじょう)の様でもあるといわれている。八つの顔を持つことから八頬王や八面頬とも表記され、同じように六面王や九面王も伝えられ、物部村には八面王の墓である石塚がところどころに現存するともいわれている。物部地方史の草分けでもあった松本実氏の昭和30年代頃の聞き取りによれば、それはヤマタノオロチのようなもので、その墓が高さ三尺長さ五間もあるのは蛇のように長いものを葬ったからだと伝えている。
八面王神社を祀ってあった境内跡には石垣や小祠が残されていた。
ちなみに、手もとにある文献で八面王を記した最も古いものと思われるものに土佐民俗学の父「寺石正路」が著した「土佐風俗と傳説」がある。それには明和九年(1771年)八月の事として以下のように描かれている。「脊高一丈程もある大入道の身體一つなるも頭首八つあり、頭髪は前後に垂下し猩々か猿の如く都合十六箇の目を見開き、かくと此方を睨みつくるに、(以下略)」と、ヤマタノオロチとはまた異質な怪物として語られている。
ともかく、そのような怪獣がなぜ信仰の対象になり得たのだろうか。ここで考えられるのが陰陽道いざなぎ流祈祷と、民俗神「山の神」信仰であり、あるいは木地師との関わりが深いという説もあるが、それはまた後ほど考えてみることにして、ひとまず神社跡から引き返して三角点に向かうことにする。
八面王神社跡から石段の上まで引き返し、そのまま町境の尾根を東へと三角点の標石をめざす。植林と照葉樹の境を辿り、前方の小高いピークに登ると、大きなシイノキの奥で伐採された木々に覆われて三角点の標石が隠れていた。
辺りは木々に覆われ眺望は無い。三等三角点の標石に簡単な挨拶を済ませるとそそくさと下山の途に着く。
三角点の標石を確認すると帰途につく。