登山口から約45分、標高およそ1400mの小ピークを越えるあたりから登山道はなだらかになり、標高1421mのピークへと向かって進んで行く。
尾根伝いに明るい林の中を行く。
登山口からおよそ1時間になろうかという頃、登山道は林を抜けてササ原に出る。
辿り着いた1421mのピーク一帯はササ原で、ここまで来ると登山道の向こう(東方向)に目指す綱附森が見えてくる。綱附森の左には三嶺も顔を覗かせている。
北には、牛の背の水平な稜線と三角錐の天狗塚が対照的に望まれ、西熊山も指呼の間にある。
後方(西方向)には土佐矢筈山の向こうに梶ケ森や御在所山などお馴染みの山たちが並んでいる。
晴れ晴れとする展望に、陽射しさえ凌げるならいつまでも憩っていたい場所だが、あいにく高く昇った太陽に照らされ汗は一向にひかない。追われるように再び綱附森をめざして歩き出す。
牛の背のような綱附森(中央)に向かってササ原を進む。
1421mのピークからは一旦ササ原を下って行くことになる。
再び原生林に踏み込み、これから何度かササ原に出てはアップダウンを繰り返して進んで行く。美しいササ原と、マムシグサなどが咲く林の繰り返しは心地よい変化があって飽きない。
ツツジ類や、コメツガ、ニレ、モミなどの林を抜けると、一面のササ原に出る。
なだらかな鞍部に広がるササ原の中を、まるで天空を走るハイウェイのように登山道は真っ直ぐと延びている。そこには稜線歩きの楽しさを満喫できる風景が広がっている。
なだらかに広がるササ原。右奥が綱附森山頂。画面中央付近に東笹林道への分岐がある。
1421mのピークから約20分、一面のササ原で東笹林道への分岐に出会う。
北には寒峰をはじめ徳島のやまなみが広がっている。
ところで、この東笹林道への分岐を南に下ると、約5分(〜10分)の所に水場があるとガイドブックにはあるが、充分に飲み水を持参した私たちは確認を怠ってしまった。(実際に水場に行かれた方は、是非とも様子を教えてください。)
なお念のため、ここを東笹林道まで下りるコースは下山には使用しない方が良いでしょう。事実ここを下山コースに使った友人杉村さんは延々林道を歩いたとのことで、その友人杉村さんのように「歩き足らなくて」と思われる方以外は使用しない方が無難でしょう。
さて、広いササ原を終えると再び低木の林をくぐり抜け、東笹林道への分岐から約13分、登山道で北に目をやると渓を隔てて天狗塚が目の前に聳えてきた。その山肌にはツツジの赤が鮮やかな色を添えている。
登山道で北のやまなみを眺めながら小休止。ササの向こうに見える三角形のピークが天狗塚。
ここまで来ると綱附森山頂まではあとひと息である。
ササ原の中にミツバツツジなどの点在するスロープを山頂までの最後の登り坂が続く。
東笹林道への分岐から約25分ほどで、烏帽子のような風情ある岩が山肌に現れる。
振り返ると、あれほど近くにあったはずの土佐矢筈山が遙かになり、越えてきた幾つものコブや、南に大きく張り出した東笹林道などが一望になる。
見事な展望の中を更に進むと、南後方には大栃の集落が白く光り、出発してきた矢筈峠は遙か山向こうになった。
緩やかに登って行く縦走路。
山頂を間近にして矢筈峠方向を振り返り、かつてその峠を越えていった純心とお馬(*1)のことを思ってみた。
矢筈峠は、あの「よさこい節」の一節「おかしなことよなはりまや橋で、坊さんかんざし買うを見た」で有名な「純心、お馬」の国抜けの道でもあった。
二人が笹番所を破り、手に手を取って矢筈峠を越え讃岐の琴平に向かったのは、今から約150年前、安政2年(1855年)5月20日の夜、時に純心37歳、お馬17歳のことだった。
(*1)純心とお馬について
当時、五台山竹林寺(四国霊場第31番札所)脇寺妙高寺の住職として二百人余の修行僧を指導していた純心のもとには、「慶禅」という若い僧がいた。慶禅は、その頃五台山小町と呼ばれていた美しいお馬にぞっこんとなり、はりまや橋で花カンザシを買い与えたのだが、カンザシの送り主は不明のまま噂だけが瞬く間に城下に広まってしまう。人々の好奇の目は竹林寺に向けられ「カンザシの送り主は慶禅か純心か」と、お馬の良き相談者だった純心までもが疑われてしまう。
当然のことながら慶禅は寺を去ることになるのだが、純心は噂の主が慶禅だということをいっさい明かさず、自らの監督不行届を苦に一旦寺を下りる。そのことを知ったお馬は、心の師と仰ぐ純心が自分のせいで寺を下りたことを悔い、思慕の念はやがて恋する想いへと変わってゆくのだった。
ひとときも純心のことを思わない日は無いほどに思い詰めるお馬に、好まない相手との縁談が持ちあがる。そんな折しもお馬は、純心が竹林寺に帰って来たことを知らされる。
お馬は純心に逢い、その胸に飛び込んだ。お馬の熱い思いを受け止めた純心は、自分に正直に生きる道を選び、二人で土佐の国を離れることにした。こうして知人に道案内を頼み、二人は小雨と夕闇の中、この矢筈峠を越えて行ったのだった。
この時、二人の矢筈越えは暗闇の中だったが、もし、晴れ渡った日中にここを越えていたなら、美しい四国山地の景色を目の当たりにして二人はどんな思いを抱いただろうか、私には興味深い。愛する人との新天地での生活への希望は、この素晴らしい自然ときっとオーバーラップしただろう。
ところで、苦労して国を抜けた二人だったが、数日後には捕らえられ高知城下に連れ戻されてしまう。
二人は「面縛(めんばく=後ろ手に縛り顔をさらすこと)三日間の後、純心は藩外追放、お馬は土佐は安芸川より東に追放」となる。
城下でさらされた二人を、人々は口々にののしり、ただ純心が若いお馬の色気に狂って僧侶の身でありながらカンザシを贈り、それが縁でお馬とただならぬ恋仲となり駆け落ちしたと解釈したのだった。
後に、藩外追放された純心は愛媛県川之江に暮らし高知県吾北村出身の女性と結婚するが、妻には先立たれ、やがて愛媛県美川村に移り住み、明治21年二度と土佐の地を踏むことなく、70歳にしてその生涯を終える。
一方、お馬も純心と同じ頃に結婚して、後年は東京に移り住み、明治36年、65歳で病没している。
(*純心お馬の生涯については諸説あるが、私は桑田一(本名:竹内義光)さんの説を推して紹介しました。)