「英語で」学びたくなった 国際関係学院 「アメリカン・ビジネス」 「ケース・スタデイ」 「コミュニケーション」系 もしかしたら、僕の国際ビジネスマンとしての幸運は、日米会話学院に入学を許されたことで、全てが始まったのかもしれない。 英会話の専門学校として随一の評判を取っていた同校は、国際ビジネスと国際関係の分野とでは、わざわざ別の学院としてこの国際関係学院を設置していた。僕の英語力ではまだとても及ばないレベルだった。興味は持ったのだが、あきらめようと思っていたら、その受付の人が 「試験だけでも受けてみたら」 と、薦めてくれた。国際関係学院の中でも、国際ビジネスのクラスの方では若手現役のビジネスマンを特に歓迎すると言うことなのだそうだ。このコースのターゲットとしている学生そのものが僕のような20代後半のビジネスパーソンだという。 確か、入試は個別に行われたように記憶している。つまり、筆記と、テープによるヒアリングとそれに対して答えやら、意見やらをテープに吹き込み返すといったもの。それから、確か一人の先生に面接してもらえたのではないだろうか。 国際関係学院のこの入試でもぐりこませてもらったのが、僕の異名、「ミスター・ラッキー」の始まりだろう。この学校は、そのコースの性格から、この時期若手男性の現役ビジネスマンのバランスを上げようとしていたに違いない。 28歳になっていた新年、僕はいきなり3つのクラスを取って、国際関係学院での学習を開始した。それぞれのクラスは三ヶ月間に渡り、週1回、一時間半、週日は確か6時半からの始まりだった。三つのうち一つのクラスは確か土曜日の午後に取ったと思う。 どんなクラスを取ったかというと、その名も「アメリカン・ビジネス」、それから「ステート・ユア・ケース」と「紛争を避ける交渉術」である。 「アメリカン・ビジネス」は、(以下略) 僕は一人暮らしの気楽さから、予習に時間を割くのは苦にならなかった。酒を飲まないこともあったし、トミー工業でもアフター・ファイブの付き合いはしなかった。 国際関係学院のクラスの出席と勉強に集中していたので、6時半のクラスに間に合うように、その日は6時終業になるといつも一目散に会社を出てしまっていた。 ある時、社員通用口のタイム・カードの前で6時になるのを待って、カードを押したら、機械の方が1分だけずれていて、5時59分と赤字で打刻されてしまったことがある。 翌日、杉本さんのところにそれを持っていって、釈明をした。そうでなければ、昨日の赤字打刻が早退となってしまう。 「山田さんは終業時刻の前に出口で待機しているの」 と、杉本さんに呆れられてしまった。
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