復活の世界 Faile 4 「タスマニア・疾駆!」

オーストラリアがイギリスによって統治されて、原住民であるアポリジニーとの間に、まだかなり激しい戦いが繰り広げられていた時代を素材にした、長編小説「紅のサザンクロス」を書いた時のことでした。

時代は1803年頃のこと、当時、イギリスは国内に不安な状況があって、政府はいわゆる政治犯や凶悪犯罪に関係した者などの厄介者たちを、オーストラリア・・・その中でも海を隔てたタスマニアへ流して来ました。そこは流刑地だったのです。かなりの罪人を送り込んできましたが、罪人といっても彼らは、ほとんどが政府にたてをつく政治犯と、所謂凶悪犯罪者で、イギリス本国には置いておきたくない者たちばかりでした。

もともとオーストラリア大陸には、アポリジニーという原住民がいたところでしたから、移住者との間に摩擦が生じることは、容易に想像がつきます。

「紅のサザンクロス」は、そんな時代を背景にして、政治犯として送り込まれた者と、原住民であるアポリジニーとが、統治するイギリス本国の役人との間にぶつかりあった様子を、アクションとして描いたものなのですが、とにかく観光などというものはまったくせずに、そのころの刑務所などを転々と取材していきました。

罪人たちは、みなタスマニアの収容所に置かれていましたが、とにかくここなら、たとえ脱走しても、海を越えてオーストラリア本島へ行かなくては生きられません。非常に逃げ延びることは困難なところなのです。しかもその収容所の周辺には、とても困難な仕掛けが、幾重にも設けられていました。

わたしたちは、罪人たちがどんなところに、どのような暮らしをしながら置かれていたのかを調べるために、出かけて行ったのでした。もちろん支配者が住むオーストラリア本島・・・特にシドニー、メルボルン、エアーズロックなどの取材もしましたが、何といっても取材の中心はタスマニアでした。今回はその時のお話なのですが、取材の成果というよりも、それに伴って体験したことについての報告です。

しかしそのお話をする前に、ちょっとお断りしておかなくてはなりません。実は目下わたしは、終の棲家を建設中なので、仮住居をしているのですが、そのために記録になる、いろいろな写真や資料を、倉庫へ預けてしまいましたので、肝心な写真も手元にはないのです。しかし今回は思いがけないことで、タスマニアで最初に泊まったホテルと最期に泊まったホテルの写真が見つかりましたので、急遽その時のお話をすることにしたわけなのです。(現在、すでに建築は終わり、新居での生活に入っておりますので、念のために書きとどめておきます)

先ず一枚目の写真は、ポートアーサーのホテルと、その前方に置かれている自動車・・・レンタカーですが、タスマニア取材にずっとつきあってくれた、忘れられない同士なのです。

日本を出る時、編集担当に聞いたところ、彼はまったく車に縁のない人だったし、予算的にガイドと運転手を雇って走り回ってもらうようなことは、まったく期待できないということが判っていたので、現地へ行ったら、わたしが車を駆って走り回らなくてはならないということを覚悟していました。そのために、わたしは前もって国際免許を取って行ったわけです。これまでどこへ行くにしても、取材の時は出版社が用意してくれた、運転手つきの自動車に乗って行くのが通常でしたので、この時はいささか不安な要素がいっぱいの旅立ちでした。

日本では多少運転には自信があったのですが、とにかく右も左も判らない異国を走るのです。いささか不安でしたが、若さもあったので勇敢でした。わたしの隣の席には、ナビゲーターにもならない編集担当を乗せて、正にタスマニアの縦断旅行を敢行したのでした。事故など起こしてしまったら大変なことになってしまいます。重大な役目を負わされてしまったわけです。

緊張するわたしをよそに、編集担当はカメラマンを務めると言って、あちこちで車を止めさせて、パチリパチリとシャッターを切っておりました。まさに立場は逆転してしまっていて、わたしはただの運転手にすぎなくなってしまったのでした。

南のポートアーサーから、ホバートそして東のセント・へレンズまで、しかし何といっても、日本のように車の数が群がって動くなどという情景は見当たりませんから、運転は実にしやすいところでした。

どこまでも一直線の道をひた走りました。その左右に広がる牧場には、のんびりと羊が牧草を食んでいましたが、道には時々、無残なムンバットの死骸が横たわっていました。夜間、あたりの丘陵地、山手から現れて来た彼らは、疾駆する車の餌食になってしまったということであった。広大で、ゆったりとした広がりの中に拓かれた一本の道を、たしか250キロ(?)は走ったと思います。タスマニアの南から北端へ向かっていったのでした。その時止まったホテルが上の写真なのです。

もちろん帰りもまたわたしが運転をしなくてはなりませんでしたから、往復500キロは運転したことになります。こんなことはこれまで経験したことはありません。実に壮大な旅を経験することができたのですが、そんな中でわたしたちは、しみじみとお粥の美味しさを味わったことは、今でも忘れられない思い出です。

実はタスマニアに着いたはじめのホテルの夕食で、ステーキが出たのですが、これが硬くて、硬くて、噛み切れなかったのです。しかし決してわたしだけの問題ではありません。わたしよりもはるかに若い編集担当者も、四苦八苦して噛み切ろうとしていたのです。そしてついに、二人とも諦めることになりました。実はこんなこともあろうかと思って、わたしはお粥のインスタントをいくつか持っていていたのです。それをこの北のホテルで、梅干を添えて食べたのでした。その美味しかったこと・・・。

取材旅行ではありましたが、それまで体験したものとは、質、量共にまったく違った、破格のものでした。

もうあんな経験は、二度と体験することはないでしょうね。そんな思いから、ちょっと書いてみたくなって紹介することにしたのでした☆

 

(旧HPからの復活原稿ですが、一部加筆、訂正いたしました)

紅のサザンクロスの写真
ポートアーサーのホテルの写真
セントヘレンズホテルの庭の写真