復活の世界 Faile 5 「ホウソウ作家誕生」

わたしは大学生時代から、放送研究会とうクラブ活動で、ラジオドラマを書くようになっていたのですが、その頃から 、卒業したら作家になろうという気持ちが、じょじょに固まっていきました。

コンクールで優勝したり、全日本学生コンクールで脚本賞を受賞したりしましたが、それだからといって、いきなり脚本家として活躍できる保証があるわけでもありませんから、とにかく就職をしなくてはならないという事になりました。ところが生憎昭和33年頃は、不景気だったので、非常に就職事情が悪くて、新卒を募集がほとんどなかったのです。大学のラジオドラマコンクールで、優勝したり、脚本賞を受賞したりした時の、審査員であったことが縁で、出入りをす るようになった劇作家の飯沢匡先生のお宅へ伺って、就職についての相談をしたことがあったのですが、その時は辛辣な言葉が返ってきました。

「就職して書きたいなら、日曜作家になりなさい」

つまりプロではなくアマチュアとして、日曜日にものを書く人になりなさいと言うことだったのです。プロの厳しさと言うものを言ってくれたのだと思います。しかしものを書くなら、どこかえ就職しなければ許さないと言うのが父の厳命だったので、わたしは就職の道を目指したのです。数少ない受験可能な会社から、出版社の新潮社、映画の東宝、テレビのTBSを受験しましたが、見事に失敗してしまいました 。

そこでわたしはふたたび、師匠の飯沢匡氏に相談したのです。

「就職は、止めました」

わたしの報告を聞いた先生の一言は、

「君なら書いていけるだろうから、プロになりなさい」

だったのでした。

それがわたしの進路を決めてしまいました。その時から、何のあてもない作家修行が始まったのでした。

まったく収入もなく、長男でありながら、人気店にまでなっていた蕎麦屋の跡も継がないまま、ふらふらしているのですから、父が許すわけがありません。今ではすっかり死語になってしまっている、「勘当」ということになってしまったのでした。それからの苦闘のお話は、また別の機会にすることにして、やがて放送作家として動き出した頃のお話をいたしましょう。

わたしが放送作家協会へ加入したのは、作家の権利を守り、放送文化の発展のために、作家たちが結束しようと、協会が発足してから何年かした後からでした。

発足当時の会員は、ほとんど従来から存在していた小説の作家、演劇の劇作家、映画のシナリオライター、寄席などの演芸作家などが中心で、みなこれまでそれぞれの分野で活躍していた人たちが中心でした。つまりテレビという媒体で仕事をする専門家は存在していなかったわけで、わたしが加入したのは、草創期の放送作家協会でした。

大体、テレビ自体が珍しい時代ですから、放送作家という仕事も、まだまだとても世の中で認知された団体でもありませんでした。従ってそこの会員である、「放送作家」という職業があるということなど、一般的にはそれほど知られてはいません。演劇などの劇作家や映画の脚本家は、何とか判る人でも、「放送作家」という呼び名にはまったく馴染んでいませんから、まったく未知の職業だったのです。事実、わたしは協会へ参加したての頃、出会う人からこんなことを訊かれました。

「どんなお仕事をしていらっしゃるんですか?」

わたしは誇らしげに、こう答えました。

「ホウソウ作家です」

するとその女性は怪訝な目で見ながら、

「ホウソウ作家って・・・、いろいろな品物の包みをデザインするんですか?」

大真面目に聞き返したのです。

まるで嘘みたいな話ですが、偽りのない実話です。如何に放送作家と言う仕事が、知られていなかったが想像できるエピソードでしよう。

その後一時期、放送作家が、矢鱈に目立った華やかな職業として、週刊誌などで取り上げられるようになりましたが 、あまりにもそれまで知られざる面が多かったので、テレビが定着すると同時に、脚本家という仕事も、一気に脚光を浴びてしまって、憧れの職業としても取上げられたりするようになってしまいました。

今ではすっかり仕事としても定着して、職業としても落ち着きましたが、テレビが始まった頃には、今ではとても考えられないようなことが、実際に沢山あったものです。

テレビが始まってすでに50年余を迎えて、放送作家も社会的に認知されて、今では確立した仕事ではありますが、メディアの広がりで、これからどんな作家が誕生してくるか 、楽しみでもありますね。

写真はデビュウ前の苦闘時代のわたし、放送作家になったばかりで協会に加入した時のわたし、レギュラー作家になった頃本読室でのわたしと、その時の環境と境遇の変化が、よく判るのではありませんか。

現在、協会は文化活動を中心とした活動をする「日本放送作家協会」と、著作権擁護など、経済活動を中心とした「日本脚本家連盟」との二つの組織で活動していますが、会員の様子は時代の変遷と同時に随分変わったように思います。☆

苦闘時代のわたしの写真
放送作家誕生の写真