復活の世界 Faile 9 「楊貴妃伝説」

中国にまつわるお話がつづいてしまいますが、今回はちょっと違った視点からのお話です。

世界の三大美女と言えば、エジプトのクレオパトラ、中国の楊貴妃、日本の小野小町というのが通説になっていますが、いつ頃からこんなことが、まことしやかに言われるようになったのでしょうか・・・。第一、この三人を同時に検証できた人はいないはずですから、比較できるはずはありません。実に不可思議なことです。きっとそれぞれにまつわる伝記、 伝承などを調べた結果、この三人が傑出していたと言うことから、そんな評価になったのでしょう。とにかく三人を並べて 、見比べた結果、判定した評価ではありませんから念のため・・・。

今回は、そんな不確かなことは百も承知で書きましたが 、上記の三人の中で、多少でも現代に近い時代の歴史とかかわりながら、実在した人物であり、それを裏付ける遺構 、遺跡が残っているという点では、何といっても中国の楊貴妃がNO1ではないでしょうか・・・。

現代に近いとは言っても、奈良、平安時代ですから、千年以上前のことなのですが・・・。それでも遣唐使船の派遣ということや、日本人の好みの時代でもある平安時代前後の人物でもあったので、興味を持っていらっしゃった方も多いのではないかと思います。

それにしても、間違いなく楊貴妃が使っていたと証明できるようなものは存在していません。彼女とかかわりのあった者の言動から、彼女とのかかわりが伝えられたり、推測されたものでしかありません。それでもこうして、時代を超えて伝えられている歴史、伝説、伝承が、非常に多いので、ついつい作家としての興味を刺激されてしまうのです。

恐らくそんなきっかけを作った最大の功績者は、白楽天(白居易)ではないでしょうか。彼の名作「長恨歌」(ちょうごんか)によって、楊貴妃の類いまれな美しさが謳い上げられた結果であったと思います。まさに筆の力は凄いものがあると言わざるを得ませんが、そのお陰もあってそのまばゆいばかりの美しさばかりか、その言動の一つ一つに至るまで 、後世の者は思わず夢見てしまうようになってしまったわけです。そのお陰もあって、長い年月をかけて、消えもせず、抹殺されてしまったりもせずに、楊貴妃伝説は、延々と伝えられ、愛されつづけ、時には怨嗟の対象ともなってきたのですね。

わたしもそんな影響を受けてきた一人でした。

たまたま「宇宙皇子」を執筆中に、中国を取材する機会があって、楊貴妃伝説、伝承というものを、実録の歴史に重ねながら歩いてみる機会がありました。

中国の西安へ取材に行った時、楊貴妃が玄宗皇帝と愛の日々を送った興慶宮を中心に、遣唐使として唐国へ渡ったまま、玄宗皇帝に可愛がられて、ついに彼の地に留まり、その朝廷の一員として働いて生涯を終えた、阿倍仲麻呂(あべのなかまろ)をはじめ、山上憶良(やまのうえのおくら)や吉備真備(きびのまきび)などの、日本の遣唐使の一員であったり、遣唐留学生として、どんなところへ行って政治とかかわり、どんなところへ出入りして庶民とかかわっていたのだろうかという推理をしながら、その足跡を辿ったりして歩いてみたりしました。

まだまだ現代のように整備されない時代でしたので、乾いていれば土煙を上げるし、雨に見舞われれば、田舎の土の道路はすっかりぬかってしまって、タクシーで行くにもかなり困難が多い時代でした。

そんなことよりも、何しろ文化革命がようやく終息する頃の中国でしたから、通訳もどこかぴりぴりとしていて、質問しても厳しい口調で拒否されてしまうことがしばしばありました 。最高に神経質になっていたのは、当時の政権や権力者についての質問はご法度でした。

わたしは唐などという古い時代について調べたいのですが、当時はそうした皇帝が権力を握っていて、人民を搾取していた封建時代についてはまったく知らせたくないようで、博物館にしても、ほとんど第二次世界大戦後の共産党が支配した、輝かしい歴史を中心とした展示で、取材したい時代については、思うように調べることはできませんでした。そんな中で遺跡、遺構だけは隠すわけにもいかないので、見てくることができたわけです。前頁の写真は、玄宗皇帝と楊貴妃が、朝廷の要人や文人たちを集めて、夜な夜な酒宴を開き、時には楊貴妃自ら蝶のように舞ったと言われていた、宮廷内の「沈香亭」(じんこうてい)という宴会場ですが、その周辺には花が咲き乱れ、池には工夫された橋がかけられていました。そんな中を歩いていると、いつか発想は唐時代に飛躍してしまって、勝手なロマンを夢見ていたものです。

もちろん厳しい現実に重きを置いて考えれば、皇帝と楊貴妃が遊びほうけているうちに、生きることさえにも苦闘する人民がいたわけで、たちまち優雅な二人の恋物語は、色あせていってしまいますが、取り敢えずそうした現実はさておいて、ロマンの羽を広げていきました。

玄宗皇帝は息子の寿王(じゅおう)の後宮に入った楊玉環(ようぎょくかん)・・・楊貴妃の本名ですが、彼女を驪山(りざん)にある温泉宮へ呼び寄せたのでした。まだ息子の妃として認められてから一年たったかどうかという間に、温泉宮へ呼びつけたのですから、間違いなく息子の愛妃を奪ってしまったということなのでしょう。上の写真はその温泉宮・・・後に華清宮(かせいぐう)で、後方に見えるのが、驪山なのですが、ここには第二次世界大戦の間、中国国民党の首領である将介石が身を隠していたところですが、わたしが取材に行った時も、八路軍・・・毛沢東(もうたくとう)率いる共産軍に襲撃されて、彼は脱走したそうですが、まだ弾痕が彼の部屋の窓ガラスに残されていました。

さて再び話を楊貴妃に戻しましょう。

この温泉宮で玄宗皇帝と楊貴妃は度々愛を語らったと言います。

皇帝の浴室、貴妃が使っていたという浴室も残されていましたが、その浴室の外には楊貴妃が湯上りの上気した艶やかな姿を現して、濡れた長い髪を乾かしたという高楼まで残っているのです。

右の写真の中で、左に見える赤い柱のあるところがそうなのですが、きっとそんな彼女の姿を見上げていた皇帝は 、二人きりになる夜が楽しみになったことでしょう。

どうも湯疲れして、ぐったりとした姿を見せると、それがまた色っぽくてたまらなかったのでしょうね。皇帝がしばしばここを使ったと言うことも頷けることです。

現在は大変な観光地になっていて、中国の市民が集まり、賑わうところになっていますが、かつて権勢を遺憾なく発揮して築いた遺構がかなり残っていて、中国ではそのほとんどを一般的に開放していますから、市民の憩いの場ともなっているようでした。

楊貴妃は皇帝の寵愛を一身に集めていましたので、一族はそれぞれ要職に就いて、現世での贅を尽くした生活していましたが、その専横ぶりに怒りを発した安禄山(あんろくざん)が反旗を翻して攻め込み、一族は次々と殺され 、皇帝と楊貴妃も逃げ延びたものの、ついに彼女は馬嵬(ばかい)というところで追い詰められて、絹を給ったということです。

この頃「絹を給う」ということは、首を吊って死ぬということです。つまり自殺するように命じられたのでしょう。

ところが彼女の死骸を埋めたところ、えもいわれぬ香りが漂い出たと言うので、農民たちが次々と現れて墓を崩して持ち去って行ったので、ついにきちんとした墓を作り、勝手に掘り起こしたりできないようにしたと言います。

伝説の美女は、死んでもなお伝説を残すのですね☆

楊貴妃・玄宗皇帝の沈香亭の写真
沈香亭付近の池の写真
沈香亭亭付近の花の写真
華清池の賑わいの写真
湯上りの楊貴妃の楼閣の写真
楊貴妃墓前の写真
楊貴妃墓の写真