復活の世界 Faile 14 「一輪の花を買って」
作家の苦闘時代の話はかなりありますが、わたしも自分の苦闘時代・・・つまり大学を出て間もなくの頃には、かなり危ないことがありました。「ああ、そんなこともあったのか・・・」と思って頂ければいいのです。
もう何年も前のことですが、まだわたしがテレビの仕事をどんどんしていた頃のことですが、若い人からよくこんな質問をされました。
「藤川さんは、はじめからツキまくっていて、ずっと上昇気流に乗っているんですね」
大変嬉しいことですが、彼らはわたしが、テレビで活躍し始めてからしか知らないのと、わりにヒット作品が多かったので、そう思うのも止むを得ないことかもしれませんが、実はそうなる前に、実に惨めな時代があったのです。
大学を卒業する頃のことです。
蕎麦屋の長男として生まれて、父も期待していたと思うのですが、たまたま大学時代に、ラジオドラマのコンクールで優勝したり、全国大会で脚本賞を貰ったりしたもので、卒業すれば、きっと各放送局から声がかって、プロとしてやっていけるだろうという、甘い考えもありました。そしてちょうどその頃は不景気で、就職の求人も少なく、受験したところも落ちてしまったのです。その時相談に乗って頂いたのが、ドラマコンクールの審査委員長であった、劇作家で芸術院会員になられた飯沢匡先生だったのです。先生は「君なら、放送作家として生活できるだろう」ということだったのです。ますますわたしの夢は膨らんでしまい、ついに大学卒業寸前に、「作家になりたい」と、父に告白したのです。ところが父が気持ちよく承知するわけはありません。今ではすっかり死語になってしまいましたが、たちまちわたくしは「勘当」ということになってしまって、実家から追放ということになってしまいました。まだまったく稼いでもいないし、世の中不景気な時代でしたから、まったく資金もなく、母がこっそりと貯めていたへそくりを貸して貰って、本だけ持って引っ越したのでした 。行った先は評判の高級住宅地、田園調布でした。わたしの父と親しかった陶芸家の紹介で、ちょうどいいアパートがあるからと、紹介して頂いたのです。
一軒の家ですが、二階建てで、一階は管理人が使い、二階は四畳半ぐらいの部屋が、廊下を挟んで6つほどありました。その一番端の部屋を借りることになりましたが、その部屋は道路側で 、ベランダがついていました。四畳半一間ですが、部屋代は4千5百円でしたが、どうやらその家のオーナーの家族が来た時に使う予定だったようで、とにかく狭かったけれどもベッドは作り付けだったし、いい部屋でした。これが新人作家のスタートでしたが、まったく当てがない旅立ちで、不安いっぱいでしたが、一方で何かかが起こりそうな希望もありました。
他の部屋の住人は東京工業大学の助教授をはじめ若いサラリーマンがいて、夕方になると、ベランダへ集まって来て、さまざまな満たされない思いを吐き出しておりました。お互いに叶えられないのに、大きな夢を語ったりしていました。
しかし甘かった。
間もなく想像もしない悲惨が始まったのでした。
しかしそんなことをしていては、生活ができるわけはありません。母から貸してもらった資金も、引越しで費やしてしまいましたので、ほとんど残ってはいませんでした。
一週間に一回、一斤のパンを買って、それで水を飲み、何とか腹を満たしていたのです。そんなことをしているうちに、とうとう栄養失調になってしまって、ベッドから降りるのもかったるくなってしまいましたが、さらにびっくりしたのはその後です。とにかくわたしは原稿を書かなくては、まったく資金をえることは出来ない仕事ですから、かったるい体を必死で動かして机のところまで行って原稿用紙を見るのですが、異変に気がついたのはその時なのです。
原稿用紙の升目が大きくなったり、小さくなったりし始めたのです。
完全におかしくなっていました。
それでも何とか一週間に一回だけはパンを買いに、駅前のGベーカリーへ通ったのです。もうほとんど資金はないというのに 、必ずその後で、向かいの花屋へ寄って、一輪だけ花を買って帰りました。まったく孤独で、不安でしたが、何とかすさんでいく気持ちを慰めてくれたのは、一輪の花・・・実は地味で、飾り気のない、くしゃくしゃとしているのに、どこか惹かれるポピーだったのでした。
その花をコップに挿して、机の上に飾って、何とか傑作を書こうとしていたのです。
しかしこうふらふらな状態になってしまっては駄目です。ほとんど思考力も失われてきていました。
(思い出の駅前の左手のパン屋もレストランになり、思い出の駅前右手の花屋も、理容室になってしまっていました)
そんなある日のことでした。
大学時代の親友Sの許婚であった、M嬢が遊びに来たのです。
その時彼女は直ぐに、わたしが水を飲んでいることに気がついて、「あんた何飲んでいるの?!」と問い詰めてきたのです。
「実は、水だんだ」
正直に現状を告白しました。
「そんなことをしていたら、駄目じゃない」
たちまちM嬢はわたしを連れて、彼女が妹と生活していた家へ向かったのでした。
彼女は早速、炒め物、味噌汁、ご飯など、暫くお目にかかっていないものを作ってくれて出してくれました。本当に助かりました。やっと力を得て、激励されながら帰宅しようとした時、彼女はアルミの弁当箱へお握りを作って詰めてくれたんです。
「アパートへ帰って食べなさい」
あの時の感動は、今でも忘れられません。
M嬢の言葉はじーんと、心に染みました。
おにぎりの詰まった、アルミの弁当箱を脇に抱えながら、夜道を歩いて東横沿線のアパートまで帰りましたが、かなりの距離でした。
その時ちょうど空には月が昇っていましたが、美しく澄んだ大きな月を眺めながら、わたしは涙が頬を伝うのを、どうしても堪え切れませんでした。
こうして苦闘しているわたしへ手を差し伸べてくれた友人の、暖かな心情が嬉しいのと、思い切り甘い夢を見てプロ作家になろうとしながら、あまりにも惨めな今の境遇が悲しくて、涙はとめどなく流れてしまいました。
幸いなことに夜道で、人通りもあまりないことから、わたしは涙を拭おうともしないで歩きました。
その時、なぜか正面に見えていた大きな月が好きになりました。
(こんな僕を見届けておいて下さい。いつかきっと笑顔で対面できるようになりますから)
そんなことが、言えるほど落ち込んでいた気持ちが、回復していました。
わたしはいろいろなところで、月が好きだと言うことを書いてきましたが、そのはじまりは、デビュウ前のこんな時の体験からなのです。
しかし今でも大事に思っているのは、あんなに追い詰められて苦しかったのに、一週間に一回だけ、たった一輪の花を買う気持ちを忘れなかったことでした。
どんなにシビアな話を書いても、どこかに優しさが漂ってくるものを書きたいと思うようになったのも、このどん底の頃の生活から身につけていったことなのでしょう。
実はこんなことがあってから間もなく、わたしは局からのお呼びがかかって、いよいよプロのスタートとなったのですが、お陰さまでそれから後は、実にツキまくり、若い人から前述のようなことを言って頂くようになったのです。
その時わたしは、あることを悟りました。
(沈む時は思い切りどん底まで沈んでしまえ。その分浮力がついて浮上しやすくなるのに、早く助かりたくてじたばたしてしまうために、却って溺れてしまうということなんだ)
若いなりに、そんな発見をしたのでした。
いささか説教臭くなってしまいましたが、これはわたしの惨めだった頃の、実体験談なのでお許し下さい。
こんな経験があって、わたしは月がたまらなく好きなんです☆
(旧HPからの復活した原稿ですが、一部加筆、訂正いたしました)