復活の世界 Faile(23)「アンチ・ジェネレーション」

昨今、そんな言葉をよく耳にします。

おもに女性が、ファッションなどで、年齢からは想像できないものを身につけたり、昔だったらとてもやらないようなことをしてみたり、挑戦したりする時に使う言葉のようです。

熟年女性がそのように答えるのを、よく耳にいたします。横文字が並んでいると、如何にも新しいことのように思えて、また新しいファッションでもはやりだしたのかと、聞き流してしまうのですが、ふと冷静になって考えてみると、どこかでそんなことを聞いたことがあったような気がしてくるのです。そして間もなく、それは別に目新しいことでもないのではないかと思うようになりました。

「アンチ・ジェネレーション」

横文字を使うと、何か新しいことのように聞こえますが、簡単に言えば、つまり年齢に逆らうということです。

もちろん昔よく言われていたことを、今風に言うとこういう表現になるっていうことなのかもしれません。若い人は別として、年配の方でしたら、ほとんどの方が、言ったり、言われたりした経験があるに違いありません。

「年甲斐もなく」という言葉です。

年を取ったら、年に見合った生き方をしろというのが、常識であったわけです。

無理をして若ぶったことをするなという忠告じみた言葉でした。つまり自然に任せて生きようという、ごく無理のない人生哲学であったように思います。却って年に似合わない・・・無理をして若ぶろうとする化粧や服装、いき方は、みっともないということです。そんなことをしたために、つまり年に似合わない無理なことをしたために、大事に発展してしまうということがよくあったし、うまくいかなくなったりしたので、仕方がなかったのかもしれません。

社会全体がそうだったので、若者は若者として、年配者は年配者としての、暗黙のうちに納得している生き方像があって、それに従って生きていました。つまり知らず知らず、それで住み分けをしていたし、社会のルールの基本のようなものにしていました。

まぁ、言ってみれば、価値判断の基準にしてもいたわけです。そうした常識が社会全体を取りまとめていた時代が、かなり長くつづいてきました。もちろんわたしも、そういった時代に育ち、成長してきましたから、そういったことが通用する社会規範というものには安心感が伴うのですが、しかしわたしはその成長する過程で、さまざまな形、さまざまな価値観、さまざまな思想の変化という時代の波に曝されてきましたので、所謂、旧世代の人々とは、ちょっと違った受け止め方をしています。

もちろんわたしも旧世代であるにはあるのですが、必ずしも古くから言われているとおりだとも思わないし、そうかといってすべて新しい流行がいいとも思いません。とにかく新しい流れは理解できますが、そうかといってそれが行き過ぎてしまうことには、どうしても同調できません。

昨今、女性が得意気に、時には照れくささを隠すために、「アンチ・ジェネレーションです」などと告白するのを聞いたりした時、ふと、あることに突き当たるのです。かねてから大変気になっていることだったのです。

かねてから一般的に、人の印象を判断する時、その年齢を聞いたり、書類などを見て、お若いとか、かなりお年ですねなどと判断いたします。わたしは年に似合わず若く見えるほうなので、そのために得をしたり、損をしたりしてきましたが、年齢を訊かれたり、調べられたりした時の相手の反応のために、かなり傷つくようなことが多かったように思います。見かけは若いのですが、年齢を伝えた途端に、あまり歓迎されなくなってしまったりすることがありました。

「年齢なんか関係ない。何が出来るかが問題なのだろう」と気張っているわたしにとっては、かなり衝撃的なことでした。

「大事なのは、内なるものの若々しさにあるんじゃないか!」

大声で反撃したいくらいでした。

いくら時代の流れだからといって、殊更年齢による衰えに逆らって、それを隠そうとしたり、装ったりする風潮には、疑問を感じざるを得ません。しかし・・・です。

たしかに世の中の人のほとんどの方が、年齢や見かけの印象で相手を判断すると思いますが、それは決して正しいことではないように思います。もっと仕事の中身、成果を評価すべきです。それなのに、どうしても年齢だけに注目してしまうのです。確かにそれは、相手を判断する初歩的な判断基準であることに間違いはないのですが、そのためにかなり不満を感じていらっしゃる方も、多いのではないでしょうか・・・。

そのために(アンチ・ジェネレーション)などということが喧伝されるようになるのでしょう。

たしかに時代の感性にしても、昔とはかなり違ってきています。

若々しく見せなくては相手にしてくれない、無視されるということもあるかもしれません。しかしそんな表面上の問題ではなくて、内なるものを磨き上げて、年齢相応の美しさを表現するように出来ないものでしょうか・・・。

(アンチ・ジェネレーション)などといって、殊更自分を若く見せようとして、気張るような必要はありません。

わたしはかねてから、ただ昔からの慣習だからといって、無闇にそれに従うという考え方や判断の仕方に、極めて不満を感じていましたが、そうかといって、時代の流れに従って、唯々諾々と流行に従ってしまうということが、ないようにしてきました。齢を重ねたら、重ねたなりの生き方があるように思うのです。ところが昨今は、健康で長生きする人も多いし、年に似合わず若い人もかなりいらっしゃいます。

最近になって、あちこちで(アンチ・ジェネレーション)などという言葉を聞いたり、無理をして、年齢とは思えないことに挑戦したり、試したりするような時に、わざわざこんなことを言ったりしているのに気がついて、結構、横文字で表現すると、かなり新鮮に聞こえてくるものだなと思ったりもしてくるのです。

みないつまでも、若くありたいし、いつまでもそんな気概を持って生きたいとは思います。しかしそれはあくまでも心の充実ということが伴ってのことです。形だけでは駄目です。精神的にいつもフレッシュさが保たれて、いつも生き生きとしている状態が整っていなかったら、みっともない(アンチ・ジェネレーション)になってしまいます。

そんな言葉を発する人を見た時に、胸を張っているよりは、どこか照れくさそうだったり、その表情の中に、「年甲斐もなく」などといった言い訳めいた表情を感じ取ったりいたします。

そんな時、是非、思い出して頂きたい言葉があります。

かつてよく言われた言葉に、「二十歳の老人」もいれば「六十歳の青年」もいるということです。現代でもそれは、かなり生きている言葉だとは思いませんか。いや、むしろさまざまなことでの進化が激しく現れてきている時代だからこそ、余計に浮き彫りになってきているように思えてなりません。街へ出てそんな光景を目にすることが、多いのではないでしょうか。

わしのように、旧世代・・・第一次世代と呼ばれる人間に言わせると、まるで活気のない、老人のような若者の姿をみることが、かなりあります。話題のニートなどと言われる若者は、わたしが言っている老人のような若者の中にははいりません。あれは生きる目的を持てない、見つからない、まるでナマケモノ族というべきでしょう。

あれはまるで何もする気がなくて、木にぶら下がっているだけで、一日、一日を過ぎていくナマケモノです。それに対して、まだまだ活力を持って生きようとしている老人もいるのです。

そのようなことを考えると、(アンチ・ジェネレーション)などと言って努力している人々は、評価しなくてはならないかもしれませんね。しかしそれらがかなり高齢者たちだというのが、どうも気になります。

もっと自然でいいのではないでしょうか。

年配者は年配者らしく、若者は若者らしく、お互いにそれぞれの生き様を発揮しているというのは、気持ちがいい姿なのですが、どうもそのへんの住み分けができていないで、曖昧な人々が多すぎます。年配者は年配者らしく、若者は若者らしくなどというと、自由を謳歌している現代人から言わせれば、如何にも旧時代の名残で、人の生き様を規制してしまうような表現で、拒否したくなる方も多いとは思いますが、すべて自由な生き方、自己顕示欲、価値観の表現手段として、(アンチ・ジェネレーション)などといって、無理をして装う姿を見ると、気の毒に思えてならなくなってしまうのです。

肩肘張らずに、ごく自然に生きましょう。

それこそ、「年配者は年配者らしく、若者は若者らしく」です。

とても楽だし、傍から見ていても、とても気持ちのいいものですよ。

ただ時が流れるように、ごく自然に年老いていくということではいけないのでしょうか・・・。いろいろと考えさせられる時代ではありますね☆



この原稿は、SNSのHPに執筆したものを転載したものです