復活の世界 Faile(24)「沈香を焚いて」

年も改まりました。

そこで、少しは新年に相応しいお話を提供しようという気持ちになりました。

作家は原稿を書く時に、まるでお呪いのようにやることがあります。自分にある暗示をかけるということなのかもしれません。書くということは、とにかく好きだからやるのですが、しかし実際に書くことが仕事となると、いつも楽しくというわけにはいきません。そこで何とか自分を奮い立たせたり、励ましたり、時には慰めながら、辛い作業に立ち向かわせようとします。エンジンをかける、スターターの役割を果たすようなものを、作家たちはそれぞれ独自に考え出しているはずですが、わたしはもっぱら「沈香」を焚いて原稿を書いてきました。

作家というと、外から見るとのんびりとしていて、ゆったりと仕事をしているように思われるのですが、そんなイメージどおりだったのは、昭和の初頭ぐらいまでだったと思います。作家という存在は数も少なかったし、時代を背負って立つ文化人の代表でしたから、大変大事にされていましたし 、出版社もごく限られていたものです。そんな状態でしたから、確実に読者を掴み実績さえ積んでいけば、それほど沢山書かなくても、出版すれば売れるという状態で、生活も成り立っていましたし、出版社も作家を手放さないために、あれこれと面倒を見たりしていました。読者も半年に一回とか、一年に一回出版されるその作家の作品を、待ちかねたように買いましたから、現代の人気作家とは大違いで、ごく調子のいい時間に原稿を書いて、あとは気ままに散策したり、仲間と飲食をしたりして、実に悠々と生活していたものです。

時代が進み、テレビなどという新たなメディアが登場してくるようになると、とてものんびりとした作業をしている訳にはいきません。スピードを要求されます。そんな時代感覚の影響は、電波ばかりでなく活字の世界にまで及んできました。気が乗らなければ書かないなどといって、筆を止めてゆったりと休んでいるというような、悠長なことが許される時代ではなくなりました。中でも多忙な作家になったら、あまりのんびりとしている時間などはありません。わたしは映像作家時代から、かなり多忙なスケジュールをこなしてきていたので、活字の世界へ転進しても、それほどのんびりとはしませんでした。出版予定もぎっしりと詰まっていましたので、せっせと原稿を書かなくてはなりませんでした。しかし・・・、原稿を書くという作業は、一見して静的な仕事のように見えるのですが、かなりエネルギーを消耗するし、過酷な仕事なのです。そんなことはないだろうと思われるかもしれませんが、実は大変な重労働だといったほうがいいのかもしれません。そこで仕方なく、そんな自分を奮い立たせるために、いろいろなことを、それぞれの方法で試みて、作業を始めようとするわけなのです。

しかしとにかく作家と言う仕事をする限り、ストレスから逃れるわけにはいきません。何とか過密スケジュールをこなすためには、何とかその過酷さに耐えていける工夫をしなくてはなりません。そんなことからわたしは、お香を楽しむようになったのです。わたしは小説を書く時も、作詞をする時も、そんないい気分の中で作業をするようになったのでした。古来から伝わる日本の香りの文化は、かなり伝統があって香道というものが伝えられているくらいで、その道を極めるにはなかなか難しい勉強が必要になります。ちょっと気楽に楽しむと言うわけにはいきません。しかしわたしの場合は 、もうちょっと気楽に楽しむことにしているので、これからもずっとつづけたいと思っているところです。とにかくわたしは、原稿執筆の最中は、必ずお香を焚くようになりましたが、それはあくまでも密かな楽しみだったので、個人的な付き合いのある人にはお話しましたが、仕事に関係する人々には、ほとんどお話したことがありませんでした。

それが或る出版社の編集長に原稿を渡した時のことでした。彼はすかさず「あっ、お香の香りがしますね」と言ったのです。これまでそんなことに気がつく編集者は、まったくいませんでしたから、大変びっくりしました。それでもとにかく嬉しいことでもありました。これまでほとんどの場合、そうして原稿を書いていたのですが、それに気がついたのは 、このY編集長がはじめてだったからです。焚いていたお香が、知らないうちに原稿用紙に移っていたのでしょう。いわゆる移り香というものです。しかしとにかく、そんな密かなわたしの楽しみに、気がついてくれるということが、とても嬉しく思えました。

通常は白檀の香りが高貴だと言われていて、大事にされていますが、わたしはどちらかと言えば、あまり個性的で強烈な香りで、時には精神の高揚のために使うものよりも、穏やかで落ち着く香りが好きなので、だいたいいつでも「沈香」にしているのです。もちろんアロマテラピーにも興味は持っていますが、どちらかと言うと、化学的な調合で作り出すそれよりも、やはり香木から漂ってくる香りに惹かれます。

せせこましい現代人の日常生活ですが、作家のような神経をすり減らす仕事をする人でなくても、時にはお香を楽しむくらいの余裕を持って生活したいものですね☆