復活の世界 Faile(25)「政治改革今昔」

突然、このような原稿を、旧HPから復活させることにしました。今や日本はどう未来像を描いていいのか判らずに、混迷しきっています。

そこで数年前の小泉総理の頃に書かれたものを、多少、修正、削除したものを、もう一度復活することにいたしました。



昨今は何かにつけて「改革」ということが叫ばれます。とにかく大変聞こえがいい言葉ですが、しかし実が伴わないと、如何にも空しく響いてきてしまいます。それだけ現在は国民の気持ちが冷めてきているのでしょう。しかしそれでも、どの政党も、口々に改革を叫ぶということは、それだけ改革しなくてはならないことが多いということでもあります。

科学の急速な進化によって、時代も急激に変化していくのですが、政治も、世の中の仕組みや人々の気持も、それに伴って変化していけずに、戸惑っているというのが現状のようではないでしょうか。そんな中でも、特に遅れているのが政治の世界ではないでしょうか。とにかくより判り易くしてくれることが第一なのですが、どうも議員のみなさんは、与党も野党もひねくり回しているうちに、小難しくしてしまいます。しかも判りにくくしてしまうのは、政界という世界です。代議士、議員のしがらみばかりが優先してしまって、党利党略が先行してしまっています。そんなこととは無縁の国民は、いつでもそっちのけになってしまったまま、振り回されていってしまいます。

こんな調子では、きっとこれからも「改革」という言葉は、ずっと鮮度がある言葉として残っていくように思えます。「政治改革」という叫び声が、入り乱れていくと思います。

そこでわたしは、ふと思い出しました。

古代という昔々の時代で、「政治改革」と言えば、直ぐに思い出すのが、奈良時代の末期で平安時代の初期とも言える過渡期に登場した、天智天皇(てんじてんのう)の血筋である、光仁天皇(こうにんてんのう)の政治改革のことです。

古代の長い歴史を辿っても、これほどはっきりと、政治改革を打ち出した天皇はいなかったと思います。

この頃天皇というのは、権力者ではありましたが、政治の頂点に存在する象徴的に過ぎなかったのです。天皇が祭政一致で権力を掌握していた時代は、天武天皇の在世中のことで、その後持統天皇が登場した頃からは、次第に祭政一致はなくなり、天皇は祭りごとを中心に務め、政は皇族、皇族が行うようになっていきました。やがて皇族は政治から離れ、政は貴族によって行われるようになっていきました。

どうもその頃から政治の世界は歪み、汚れていきました。

要職に就いた者は、出身の一族のために利益を図って、一族の反映と権力を保持しようとしたし、自分の野心を遂げるために都合の悪い者は、抹殺してしまうという状態にまでなりました。

そした時代が長くつづいていくのですが、そんな中で一番成功した一族は、藤原不比等(ふじわらのふひと)の流れを受けた藤原氏でした。同じものがいつまでも権力を握っていると、どうしても腐っていくのが政治の世界のようで、奈良時代の末期にはどうにもならない混乱期が訪れて、藤原氏もにわかにその威光を失っていってしまいます。その間に一番問題になっていったのが、財政的な逼迫ということでした。政治の中心であった朝廷が肥大化してしまって、ついには天皇家の生活の中心である、内裏の維持費までもままならない状態がやって来てしまったのです。大雑把な言い方をいたしますが、奈良時代の末期がそういった状態にあったと言っていいのです。

そこで登場したのが光仁天皇というわけなのです。

この方はかなり高齢であったこともあったのですが、政治的にも混乱状態にあって大変な時代であったので、その統治の時代は実に短期間で終わってしまいましたが、とにかく混乱を収拾するために、どんな人を天皇にしようかということが考えられた時、結果として一番問題のなさそうな人選に落ち着きました。一番清廉潔白な人を天皇に押し上げたのです。

もちろんこの頃は、所謂内閣に当たる朝廷がきちんと機能しなくなっていたこともあるところから、この光仁天皇は、先ず肥大化して機能しなくなっているものを整理していくことにしました。そこで行われたことは、それまでの歴史から考えると、とても信じられないことでした。それほど衝撃的なことで、わたしもそのことを知った時は、目を疑ったほどでした。

さて光仁天皇が行った衝撃的なことというのは、何と政治改革だったのです。

朝廷で働く官人の整理です。つまり役人の整理です。各省庁からかなりの人を整理していきました。そのために長いしきたりの中で安住してきた者たちから、反発を招いたことは間違いありません。自分たちではどうにもならなくなってしまったから、光仁天皇に政治の要を託したのに、自分たちに不利なことが出て来ると、たちまちうるさくなってしまって、足を引っ張り始めるのです。

まさに現代も古代も同じです。ということはあまり政治の世界は進化していないと言うことです。

実はそればかりでなく、光仁天皇はただ権威だからといって、いつまでもその頂点に君臨していて、実際には何の活動もしない者を整理して、若手で意欲に満ちたものを引き上げるというようなこともしていきました。つまり大学寮・・・今の国立大学のようなものですが、ここで働く博士の中で、ただ長老だからといって、生徒の教育もろくろくやらずにふんぞり返っているのに代って、意欲的な若い教育者を引き上げていったということです。この時の改革を、すべての権力者・・・つまりこの頃は政治家たちですが、彼らが支持をして推進していけば、その後の日本の政治も随分変わっただろうなと思うのですが、残念ながらそうはいきませんでした。

光仁天皇の在位期間は、わずか十一年という短期間で終わってしまいました。しかもその足を引っ張ったのは、何と光仁天皇に政治的な混乱を収拾させようとして即位させた藤原氏だったのです。まるで現代のお話のように思えてきてしまいます。どうしてあれだけ切実であった財政難が迫っていたのに、このような結果になってしまうのでしょうか。

結局改革を挫折させてしまったのは、彼らにとって都合がいいと思っていたところが、どんどん不都合な展開になっていくので、もうこれまでだと決心したのでしょう。いってみれば、改革反対という勢力が、光仁天皇を退位せざるを得なくしてしまったのでした。

ちょっと現代でも聞くようなお話でしょう。現代人のわたしたちにとっては、何とも納得できないことです。

実はこの頃、藤原氏は大変まずいことがあって、権威が失墜してしまっていましたから、失地回復に躍起になっていたのです 。光仁天皇はそういった藤原氏に利用されてしまったわけです。

現代であったら、きっと市民の支持を得て、きっと改革の実を挙げることができただろうにと思うと、残念でなりません。結局財政難問題は先送りにしてしまったので、所謂平安時代になっても、それはまったく解消できず、ついに嵯峨天皇(さがてんのう)は皇族の暮らしを支えることも困難になってしまって、ついに苦肉の策として臣籍降嫁(しんせきこうか)ということを行わざるを得ませんでした。つまり皇族を臣下と結婚させて、皇族の生活を支える費用の削減を図っていかざるを得なかったのです。あの光仁天皇の時に、思い切って政治改革を行い、つづいて桓武天皇(かんむてんのう)、平城天皇(へいぜいてんのう)、嵯峨天皇もそれを引き継いで努力しつづけていたら、きっとあのように嵯峨天皇が苦しむことはなかったと思うのですが、そんな状態にありながら、権力者たちはそれぞれ私欲のために陰謀、策略、闘争を繰り返して、世の中を騒然とさせてしまって、さっぱり落ち着きませんでした。

こんな時、いつも苦しめられるのは、圧倒的な数であった農民たちでした。本当はそれらの農民の働きによって、権力者たちは生活ができているというのに、まったく理不尽な話です。現代でもこれに似たようなことを見聞きしますが、どうもこうした問題は、古代から現代まで、ずっと解決できずに引きずってきているのだなと思わざるを得ません☆