交わる世界 Faile 8 「東京大空襲を語る」

5月24日、慶応大学北館教室で、SNSの「シニア・エージ」が主催する、昭和を語り継ぐという催しで、指名を受けて、わたしの経験した学童疎開と、そこで目撃した東京大空襲で、夜空を真っ赤に染めて燃える様子を語りました。

会員多数の参加で、熱っぽい語りが、わたしを含めて3人によって行われました。

その時のあらましを記録しておきますので、ご一読下されば幸いです。


「東京炎上の記憶」


わたしも学童疎開の経験者ですが、3月10日の東京大空襲の日のことは忘れられない思い出になっています。

わたしの家は、文豪永井荷風の「?東綺譚」で有名な、玉の井遊郭の入り口付近にありましたが、戦禍の広がりに伴って、わたしたち墨田区向島第三寺島小学校の生徒と、近くの小学校の生徒は、茨城県行方郡潮来町の潮来ホテルと長勝寺というお寺に分散して集団疎開いたしました。

潮来といえば北利根川に沿った水郷の町で、いろいろと歌にもなっている有名なところですが、当時は実にのんびりとした田舎町でした。

対岸には千葉県の田園が広がっていて、実にのびのびとした環境のところであったと思います。

わたしたちの小学校は、潮来ホテルが宿舎となっていました。ここに3年生から6年生の、疎開希望の男女が、二階の廊下を挟んだ大広間に宿泊していたのです。

わたしは5年生、妹は3年生でした。

直接のお世話役である女性の代用教員は、まるでお姉さんのように優しい人で、みなに慕われていましたが、直接のリーダーは6年生男子のTさんでした。今思うとあの頃は、6年生とはいっても、どうしてあんなに大人っぽかったのだろうかと思ったりもします。彼は大変気配りのある人で、統率力も抜群でよく男の子たちを引っ張っていったものだと感心しているんです。とても、現代では考えられないことだと思います。

あちらへ行って間もない頃は、戦時中とはいっても、大変のんびりとしていて、集団で合宿しているような楽しさがありました。勉強の合間を縫って、近くの鎮守の森へ行って、運動会まがいのスポーツ・・・たしか騎馬戦などをしていたことは大変楽しいことで、旅館にこもっているために鬱積する、エネルギーの発散の機会だったと思っていました。

東京から引率してきた先生たちも、いろいろと気遣いをしてくれてはいたのですが、時間がたつにつれて、いろいろとこれまでとは違った問題が起こってきました。

どうしても決められた食事とおやつでは、空腹を満たしたり、甘いものが欲しくて、町へ出ておでんを食べたり、仲間がどこから仕入れたのか、「ミクローゼ」などという錠剤の薬が、噛むと甘いという噂が、ひそかに広がって、みなこっそりと薬屋へ行って、手に入れるようになりました。(原稿を書く機会に調べてみたところ、これは血液なかの脂質成分の代謝をよくするもので、劇物ではないようでしたが・・・)これはやがて先生に見つかって、大叱責されて、その後は手に入れることは困難になってしまいましたが、薬で甘味を補充するという、情けない状態であったことは間違いありません。

言うまでもありませんが、近くには海軍の予科練が霞ヶ浦にあったので、時々かっこいい若い士官たちが激励にやって来ました。みなスマートな制服と、腰につけた短剣の、若いお兄さんに憧れたものです。

生徒の中にはホームシックにかかって、泣き出す女の子もかなりいたようですが、わたしも時々訪ねて来る両親と会うことが、とても嬉しいことでした。しかし東京のあちこちが爆撃されている話を聞くと、いつ両親や弟、妹たちと別れ別れになるかも知れないという、不安感が募ってきてもいました。

そうこうするうちに、米軍が必ず近くの鹿島灘から大編隊で侵入して来るんですが、それは東京の空襲のためだと知って、何かいつも不安感を抱くようになりましたが、それでもまだまだ切実感はなくて、生徒たちはみな旅館の外に出て、東京方面へ飛んで行くB29を見上げていたものです。

ところがこの頃から、こんな田舎町の周辺にも、恐ろしいニュースが入ってくるようになりました。

降伏を呼びかける電単・・・宣伝ビラがまかれたり、万年筆を装った爆弾が撒かれて、それを拾ってキャップを取った途端に爆発して、犠牲になる小学生が現れたりするようになったのです。

めったに落ちているものを拾わないようにという指示が出ました。

止宿する旅館でも、荷物を窓際に積んだりして、空襲の警報が鳴ったら、その荷の影に隠れるようにと、先生から指示がありました。

それでもまだまだ、その通りやった覚えはありませんでした。みな旅館の前へ出て、次第にB29の編隊が大きくなっていくのを見つめたりしていたのです。

夜などは燈火管制で真っ暗になりますが、ずらりと並んだ布団の上に座って、月の光の中で、蚤、虱をつぶしました。

毎日、毎晩です。それが日課でした。

そんなある日のことでした、わたしはまるで夢を見るような劇的な姿を目撃したのです。

いつもの爆撃と違って、その日はグラマン戦闘機の大編隊が入って来ました。

すると対岸のはるか向こうからプーンと蚊のなくような音を上げて、空へ向かって行くものがあるのです。

「零戦だ!」

みな、緊張して、その時の実感としては、わくわくとして、その戦果に期待して見上げていました。しかしそれは、アッという間に挫かれてしまいました。

わが戦闘機が空高く上がった途端に、ダダダッという音が天空に響いたかと思うと、緊張して見上げていたわが戦闘機は、パッと火に包まれたかと思うと、あっという間に燃える塊となって、対岸の千葉県の原野に向かって墜落して行ったのでした。あまりにも呆気ない空中戦の実像でした。

正直なところ遠くで起こった、まるでゲームのような光景でしたから、それが実際の戦闘なのだなどという実感は、ほとんどありませんでした。ただ茫然といていただけです。

ただ、蚊の泣くような音を立てて、たった一機の戦闘機が迎撃に飛び立って行った時には、

(どうして敵はあんなに大編隊出来たのに、たった一機しか出て行かないんだ!?)

そんなに日本は戦力が不足してしまっていたのかなどと考えたのは、それから大分たってからのことで、この情けない空中戦を見届けてから間もなくのことでした。

また、天空でダダダッと音がしたのです。そして次の瞬間でした。目の前の北利根川へ、ピユンピュンと不気味な音を立てて、水煙が一直線に上がっていったのです。

機銃掃射でした。

「隠れろ!」

誰からともなく叫び声が上がり、これまでやったこともなかったのに、みな慌てて積み上げた荷物の陰に隠れました。

わたしがはじめて、死というものを感じた時だったかもしれません。

いかしそれにしても、海軍の予科練もあるし、アメリカが空爆をするために進入してくる、入り口になっている鹿島灘に近い潮来を、どうして学童疎開の地として選んだのか、理解に苦しんでしまいます。まぁ、余談は差し置いて、話を戻しましょう。

こんな前哨戦があった後ろから、それこそ空を埋めてしまうようなB29の大編隊が、威風堂々と入ってくるようになったんです。まさに恐れるものはないといった雰囲気の、悠々とした敵機の群れでした。さすがにこの頃から、幼いわたしたちにも、次第に戦況は不利になっていることが伝わってきていました。そしてついに、運命の3月10日の深夜を迎えたのでした。

この日の夜、空襲のサイレンが鳴り響き、B29の爆音が響いていました。それから暫らくして、先生たちが騒ぎ始めました。母校のあるあたりが空爆にあっているということでした。

ついにわたしたちも、川岸へ飛び出して行って、東京方面を見やりました。

その時、前方の空・・・東京の空が、真っ赤に染まっているのを見たのです。

燃えている。

家族のことが心配になりました。

(大丈夫なんだろうか・・・)

(もしかしたら、これから妹と二人で、生きていかなくてはならなくなるんだろうか・・・)

そんな思いが、次から次へと襲いかかってきたものです。

わたしは、この時の東京の空が真っ赤に染まった光景を、いつまでたっても忘れられません。

わたしの家の周辺は、長屋が多く、民家が密集していたのと、玉の井遊郭の女性たちが、火事場の馬鹿力で箪笥まで担いで逃げ惑い、結局、わが家の前にあった曳船川へ飛び込んで行きました。結局煙にまかれて窒息してしまったようです。

それぞれの自宅に作られた、防空壕で焼死してしまった人も多かったと聞いています。

お陰さまで、家族は戦火の中を父の気転で風上へ逃げて、誰も犠牲にならずに生き延びることができたのでした。

ただ、幼い妹は焼け爛れたアスファルトの上を裸足で逃げたために、足の裏は火ぶくれになり、細かな砂利が食い込んでしまっていたということでした。

それから間もなく、やっと来てくれた父に連れられて、わたしと妹は岐阜県養老郡へ縁故疎開をすることになったのでした。ここでようやく幼い弟、妹たちとも一緒に暮らせるようになったのですが、間もなく父は海軍へ招集されていきました。

わたしはもう十年も前に、角川書店から短文ですが、「忘れられない記憶」ということで、若い人に書いて欲しいと依頼を受けて、あの目の前で起こった空中戦の話を書きました。しかしあの頃の若者たちは、それをどんな風に受け止めてくれたのであろうか。

戦争中のことは、親も含めてまったく知らない時代になりました。われわれの世代でも、学童疎開のことを含めて次第に風化しつつあります。

でも、絶対に忘れられない記憶として、昭和ひとけた族は、次の世代の人たちに伝えていかなくてはなりません。なぜかあの時、さまざまな局面に遭遇して体感したことは、現代でもかなりいきている教訓です。家族との絆、近所の人たち、友人との連帯、生きることへの真剣な努力、祈り、生き残ったことへの感謝などなど、現代で起こるさまざまな事件を思う時、なお更のこと、昭和の断面である学童疎開を通じて、何を感じてきたのかを、を地道に語り伝えることが欠かせないことのように思えてなりません☆