交わる世界 Faile(27)「夜の過ごし方」

昼夜の見境がなくなってしまった現代とは比べようもないし、昔の夜の様子を思い出してと言っても、そういった時代を経験していない人にとっては、想像すらすることが出来ないでしょう。

大都会では、不夜城というのに相応しい、光に満ちた光景が現出されていますから、そこには退屈とは縁遠い楽しみが渦巻いています。 それを考えると、確かに昔、昔の夜は、寝るしかなかったでしょうね。 とにかく、夜は早く寝るというのが、ほとんどの人の習慣であった時代に、どうしても起きていなくてはならないことでもあったら大変です。

しかし人は古代から、追い詰められると、何か工夫して解決するものです。

平安時代のロマンとして、知らない人はいないと思うのですが、「源氏物語」の中の「」の中で、光源氏、、、藤式部という三人が集まりました。母の桐壷更衣がいた桐壷で、光源氏が梅雨の夜の物忌みで籠っている時のことです。

頭中将がやってきて、女からきた手紙を見ているうちに、女の品定めが始まるわけです。

それに左馬頭と藤式部丞も加わって来ました。

お互いに女性に関しては、さまざまな経験を積んできたのですからということで、梅雨の長雨の夜ということで、その退屈な夜を過ごすのに、女性観というものを話し合いませんかということになるのです。

「雨夜の品定め」として、かなり知られているところです。

現代では、女性差別になる問題で、とても許されることではありませんが、あの頃はこういうことで、先輩、同輩からさまざまな女性観を聞いたり、聞かせられたりしながら、男は成長していったのです。

彼らはそれぞれの女性観を語りながら、梅雨の長雨の夜をやり過ごしていったのでした。

しかし今回は目的が違いますので、その内容について詳しく解説することはなしにします。

とにかくこのようなことで、退屈な夜を過ごしていたということなのですが、そういうことでいいますと、「庚申の日の夜」という日は、ちょっと「雨夜の品定め」とは違った意味で、徹夜をしなくてはならない日でした。

これは中国の道教から起こった信仰なのですが、その中に登場してくるというものが関係した恐ろしい徹夜の物語なのです。

つまりこの日の夜、しっかりと起きて見張っていないと、三尸という妖魔・・・天帝の使いの者が、この日それぞれの人の、日頃の行いについて、その様子を天帝に報告に行くというのです。

それでは大変というわけで、人は寄り集まって、寝ないようにして夜を明かすということなのです。

これも平安時代あたりから始まったようなのですが、徹夜をする目的が、「雨夜の品定め」のような優雅な時間潰しではなく、こちらはちょっと緊迫感が漂ったものだったのです。

何もなければ、いつ寝てもいい夜ですが、絶対に夜明けまでは寝られないのですから大変です。平安時代は、碁、詩歌、管玄の遊びを催す「」という宴を行うのが貴族たちの習いであったといいます。しかし時代が下って江戸時代になると、仏教式の庚申信仰が一般に流布して、庚申信仰の上で、最高に多彩で盛んな時代になりましたので、現代でも庚申塚が作られたり、庚申塔が建てられていたりするのを発見します。神道では猿田彦神、仏教では青面金剛や帝釈天の石像を祭ったりしますが、たまたま拙宅近くにもそれがありましたので、写真に撮ってきましたので、ご覧下さい。

夜の過ごし方を考えても、昔はいろいろなことで、苦心していたのですね。照明技術が進化した上に、遊びも多様になっている現代では、考えられない夜の過ごし方でした☆

庚申塚の写真