交わる世界 Faile(28)「手塚治虫さんのこと」

今、盛んに、「手塚治虫生誕八十年」ということで、さまざまなイベントが行われています。そこで、ふとあることを思い出しました。

恐らく仕事をした人は沢山いたと思いますが、私のように身近で作業をした人は、そう沢山いないと思うので、その話を紹介することにしたのです。

わたしは手塚さんとした仕事は、「新鉄腕アトム」で、わずか数本しかやっていない。実はわたしがメインライターとして予定されていたのですが、手塚さんは「宇宙戦艦ヤマト」のプロデゥサーが大嫌いであったことから、その彼と仕事をしたわたしを警戒していたことが原因だったのです。

どうも虫プロの倒産という事態を招いたのが、そのプロデゥサーが原因であったということのようで、そんな奴と一緒に仕事をした脚本家は信用できないというのが、手塚さんの気持ちで会ったようでした。

しかしそのへんのことは、沢山の人が手塚さんの説得に努めて下さった結果、ようやく手塚さんも納得して下さったようで、私と一緒に食事をして和解しようということになったのでした。その結果、お互いの意思疎通に問題がないのを確認したのを機会に、一緒に仕事をしましょうということになったのでした。その始まりが「新鉄腕アトム」を書くことだったのですが、その時すでに番組のほうは、ほとんど予定の本数を経過してしまっていたので、私は残された本数のうちで、わずかな本数を書いただけで終わってしまったのでした。ところがそれからしばらくして、当時、日本テレビの「愛は地球を救う」という夏の大イベントの中で行われていた一時間のアニメーション番組で、「プライムローズ」をやることにしたので、その脚本を書いてという話だったのです 。

その決定稿の打ち合わせは、手塚さんのお宅で行うことになりました。

事務所の仕事場とは違って、こちらは日本間でした。

そこで最後の打ち合わせを終えた時、手塚さんは、「ちょっと待っていて下さい」と言って、奥の部屋へ入っていったのでした。

それから間もなくのことです。

手塚さんは、色紙を持って現れたのでした。

「色がついていないでごめんなさい」

と言って、渡してくれたものが、かねて約束していた色紙だったのでした。

これには、わたしもちょっとびっくりしました。

もうしばらく前に、食事会の後でお互いの気持ちに違いがないことを確認しあったあとで、一緒に仕事をしましょうという話になった時、私は手塚さんに、色紙を書いて下さるように、お願いしたのです。しかし超多忙であったので、それがすぐには実現しないと思っていたし、時には忘れてしまうこともあるということが、充分に考えられたので、あまり執拗にそのことを覚えているようなことはありませんでした。

ほとんど諦めていたところだったのです。

もうかなり時間がたっていましたから、お忘れになってしまっているとばかり思っていたのに、手塚さんは決して忘れるようなことはなかったのでした。

わたしは大変感激して帰ったのを思い出します。

それは、今でも大事なお宝ではありますが、その後わたしの「放送作家30周年」の大パーテイがあった時、手塚さんは多忙なところ、大阪からわざわざ新宿のホテルまで駆けつけてくれたのでした。暫く出逢いの機会がなかったのですが、一度気持ちが通じ合ったあとは、大変気さくなお付き合いをさせて下る人だったと思います☆

手塚治虫氏との写真
手塚氏色紙の写真